44.

 目の前のダンは、冷たい目をしてルキウスとロジェを眺めていた。しかしロジェと目が合うと、ふとその顔を笑顔へと変える。


「……はは、ルキウスは相変わらず優しいな。僕の事も同じように、良く抱きしめてくれたよね」

「……っ」

「覚えてる? 訓練で寒かった時、ルキウスは良く僕の手を取って、息を吹きかけてくれたよね」


 ダンが近付いてきて、ルキウスへと手を伸ばす。ロジェのマフラーを握っていたルキウスの手を取り、自身の口元へと持って行く。

 ルキウスの手にはぁっと息を吹きかけ、ダンは穏やかな微笑みを浮かべた。


「僕は寒がりだったから、あの時は本当に助かったよ。『俺は暑がりだから』って言って、いつも外套を貸してくれたっけ。嬉しかったし、僕の幸せな思い出だ」

「……っ!」


 もう我慢ならなかった。

 気が付けばロジェは、ダンに掴まれているルキウスの手を、奪うように握り締めていた。

 怒りで震える息を吐いた後、ダンを睨みつける。


「ヒトの国ではどうなのか存じませんが……魔族は訓練時、外套なんて着ません。寒い時は中に着込むんですよ。……それに、訓練中に寒いなんて口にしようもんなら、それこそ顰蹙ひんしゅくを買います。それを手助けする人も、同じく白い目で見られることになるんですよ?」

「……っいや、僕の時は……」

「訓練中に、仲睦まじくしていたんですか? もうそれは、淡く美しい記憶と言うより、黒歴史では?」

「……っお前……!」

 

 怒りに吞まれたのか、穏やかだったダンの顔が歪んでいく。彼はルキウスの手を離し、ロジェへ詰め寄ってきた。しかしそれを予知していたロジェは、素早く半身を返す。

 掴みかかろうとしてたダンだったが、ロジェが躱したせいで均衡を崩した。ぐらりと身体が傾くのを見て、ロジェがその腕を掴む。


「……か弱い身体だ。確かに庇護されていないと生きていけないみたいですね。……ずっと聞きたかったんですが、どうして今更になって閣下と再会しようと思ったのです?」

「……っ、やめ、離せ!」

「もしかしてまた、閣下の特別な人に戻ろうとでも思っているんですか? 閣下に囲われて守られて、ただの弱みとして生きていくつもりなんですか?」


 ダンに言葉を吐き出しながら、それが全て自分へと帰ってくる。16年間ずっと、ロジェはこの葛藤を抱えてきた。

 今すぐにルキウスへ会いたいという想いと、このままでは彼の弱みになるだけだという自戒。この二つを抱えながら生き、そして必死の思いで乗り越えてきた。


 そのロジェの16年間を、ダンは土足で踏み入ったのだ。


 腕を掴まれていたダンが顔を上げる。目を潤ませて、ロジェではなくルキウスへと訴えた。


「これは、ヒト族への差別行為ではないですか……⁉ 僕は16年間、魔族に奴隷として仕えていたんです。……ルキウス殿下には会いたくとも……手段がなかったんだ……」


 ロジェはダンの腕を離し、同時に小さく頭を下げた。俯いている間に煮えたぎった怒りを収める。

 気持ちを落ち着けて、ロジェはダンを見据えた。


「気分を害されたのなら、あやまります。しかし僕は、ヒト族に対して差別意識はありません。彼らの心がどれだけ強いか、嫌と言うほど知っているので」


 言い終えて、ロジェはルキウスに向き直る。彼は僅かに目を見開いていて、綺麗な瞳が良く見えた。

 ロジェはルキウスの外套を脱いで、側に立っていたザザドへと渡す。


「申し訳ありません。閣下の大事な方を傷つけてしまいましたので、今日は帰ります」

「待て、シン」


 踵を返した瞬間に、ルキウスから腕を掴まれる。そして強く引かれ、ロジェは半ば強制的に振り返った。

 

「帰るな。猫と遊ぶんじゃないのか?」

「……いえ。もう今日は……そんな気分じゃなくなってしまったので」

「どうしてだ。先ほどの事なら構わん。俺も差別発言とは思わない」

「……じゃあ……」


 じゃあダンを帰らせてくれ。とは言えない。

 どうしてここに彼がいるんだ。と喚き散らすことも出来ない。

 どちらも出来ないくせに、ロジェには腹の中のもやもやを除くことが出来なかった。

 最早何に一番腹を立てているのかも、分からない。


「猫と遊ぶのは、ロジェ様と楽しめば宜しのでは?」

「……何を言っている。猫が好きなのはお前だろう?」

「好きですが、僕はもうすぐここを去りますので……。あまりに情が移って、寂しくなるのも嫌だし」

「去る? お前は何を言っている?」


 反対の腕も掴まれ、ルキウスがまるで言い聞かせるようにロジェの顔を覗き込んでくる。しかし駄々っ子のように、ロジェはその目を見返せない。

 むっつりと黙り込むと、目の前のルキウスが眉根の皺を深くした。


「去るとはどういう事だ。言え、シン」

「そのままの事ですよ。僕は出向者なので、出向元に帰ります」

「俺は許可してない」

「許可が要りますか⁉」


 思わず声を荒げてしまい、ロジェは慌ててルキウスの顔を見る。その表情は驚愕に満ちていて、何かに失望しているようにも見えた。

 

「俺の下を去るなと、そう言ったろう⁉ 消えるなと、何度も言った!」

「……しかし閣下。もう契約期間が終わります」


 ロジェもダンが来る前は、契約を延長してもらおうと思っていた。ルキウスが望まなくなるまで、寵愛を受ける役回りを全うするつもりでいたのだ。


 しかし今は状況が違う。ルトルクが間者であると分かった今、ここでは動き辛い。

 アカツキ領に戻って助力を頼み、状況を冷静に見つめる必要があった。

 偽のロジェとルキウスの仲睦まじい姿を見るのも、もうこりごりではあったが。


「閣下……。アカツキ領には、僕の大事な家族がいます。愛する人がいるのです。……また帰ってまいりますので、今は帰らせて下さい」

「……愛する……者?」

「はい。……心から愛する人です」


 ロジェは腕を掴むルキウスの手を、言い聞かせるように撫でた。

 離れて過ごした16年間で、ロジェにも大切な人が増えた。それはルキウスも同じだろう。

 アンリールやノレイアに情は無いというが、あんなに気に掛けているのだ。彼にとっての特別には違いない。

 

 ルキウスの手から抜け出し、ロジェは小さく頭を下げる。踵を返すと、今度は引き留められることもなかった。

 少し重い足を動かして、ロジェは第三科へと足を向ける。


「……ああ、やっぱり厚着してくれば良かったな……」


 ぼそりと一人ごち、まだルキウスの温もりが残る腕を擦る。冷えていくのは身体だけじゃなくて、心も冷え切っていた。

 また元のように頑張るには、少しだけ休息が必要かもしれない。今日はゆっくり湯船に浸かろう、そう思った瞬間だった。


 腹の底がかっと熱くなり、茹るような熱が顔まで上ってくる。皮膚の下を何かがざわざわ蠢き、抗いようのない脱力感が身体を襲う。

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