40.

*****


 それから数日は、ロジェにとって穏やかな日々が続いた。


 ゆっくり食事をとり、仕事も定時までには終了させられた。同僚たちが心配だと漏らせば、直ぐにザザドが手を打ってくれた。

 第三科の過剰な業務分を他の科へと回し、同僚たちも定時に帰れるようになったそうだ。

 こんな簡単に解決できるなら、もっと早めに言っておけばよかったと後悔するほどだ。


 相変わらずルキウスは忙しそうで、顔を合わせるのは僅かな時間しかない。それでも彼は職務が終わると仮眠室へ来て、一緒の寝台で眠ってくれる。

 ロジェにとっては身に余るほどの、幸せ過ぎる日々だった。


 しかしそんな幸せが、長く続く訳が無かったのだ。


 

 コンコン、と執務室の扉が叩かれる。ルキウスは不在だったため、ザザドが返事を返した。

 ロジェはいつものように机へ座り、せっせと書類を片づけていた。定時に帰らなければならないので、いつもばたばたと職務をこなす。

 来客はザザドが対応するので、ロジェはいつも仕事に集中できた。目線を上げないでいると、ザザドの戸惑った声が聞こえた。


「で、殿下……その方は……」


(……殿下? 帰ってきたのか?)


 今朝早く、急用が出来たと言ってルキウスは出て行った。ザザドへと馬の準備を指示していたため、帰りは遅くなるだろうと思っていたのだ。

 何事だろうと視線を上げると、そこにはルキウスとルトルク、そして一人の男性がいた。

 

 黒い髪、琥珀色の瞳。年は30代だろうか、落ち着いていて穏やかな男性という印象だ。

 男性からは魔力を感じないので、ヒト族であることが分かる。ザザドもそれに気付いたのだろう。驚きの顔をさっと曇らせた。


 ルキウスはその男性に優しい眼差しを向けている。まるで久しぶりに会った友を見るかのような目だ。

 男性がザザドへ向き直り、小さく頭を下げた。


「初めまして。……ロジェ・ウォーレンと言います。……とは言え……今は、ダン・フェルグスと名乗っていますが……」

「……っまさか……見つかったのですか……⁉」


 ザザドが声を上げるのを、ロジェは呆然としながら聞いた。

 この男は誰なのか。 

 いきなり現れた自分の偽者に、考えが纏まらない。


 瞳はロジェと同じ琥珀色で、年齢もロジェと同じ頃だろう。ダンの方が随分と年上に見えるが、ロジェも半魔にならなかったら、彼のような年の取り方をしたに違いない。

 

 おずおずと名乗るダンは、どこか落ち着かない様子だった。身なりは庶民と同じシャツとパンツといった格好で、豪華な執務室をきょろきょろと見回している。


 開け放されていた扉から、今度はスヴェラが姿を現す。相変わらず護衛をぞろぞろと引き連れ、得意げに口を開いた。


「私の部下が見つけましたのよ。地方の貴族の下で奴隷として働いていたから、訳を言って、我がフェルグスで引き取りました。特徴もぴったり合致しますし、本人に違いないわ」

「はい。……公女様が訪ねてらっしゃったときは驚きました……。まさか僕を探しているとは……」


 ダンはぽりぽりと頬を掻いて、穏やかに笑う。ルキウスはその仕草を、じっと見つめていた。まるで記憶の糸を手繰り寄せているかのように。

 ダンの仕草のどれかに、記憶を呼び覚ますきっかけが含まれているかもしれないと、彼はそう思っているのだろう。


 しかしダンにはロジェとの違いが二つあった。雰囲気と髪色だ。

 ダンは男性にしては華奢で、物腰も柔らかだ。対してロジェは今でこそ違うが、筋肉もしっかりとついていて骨格も男性的だった。そして性格は今も昔も変わらず、粗雑な部分が目立つ。

 髪色は、大きく違っているといって良い。幼い時のロジェはダンと同じく黒だったのだが、今では透けるような金色をしている。

 大人になるにつれ色素が抜けていく性質は、幼い頃に亡くなった母に似た。16年前のロジェの髪色は、薄い栗色だったはずである。


(……という事は……ヒトの国で得た情報を頼りに、偽物を見つけてきたという事か? 俺の幼少期を知る人物なんて、限られてるしな……) 


 幼少期のロジェを知り、青年期のロジェを知らない人物。該当者は直ぐに思いついた。

 幼い時に世話になった乳母だ。家族と関わりなく暮らした少年期、彼女だけが唯一知る大人だった。12歳を迎えてからは国軍の養成所に入っていたので、彼女はロジェの青年期を知らないはずだ。

 思考を巡らせたお陰で、ロジェは冷静さを僅かに取り戻した。


(スヴェラ嬢は『見つけた』と言っていたし、ダンが申し出てきた、という訳ではないようだ。……やはりスヴェラ嬢が画策して、俺の偽物を仕立て上げた可能性が高い。……何が目的だ?)


 スヴェラが一人掛けのソファへと座り、ルキウスとダンへと視線を送る。


「さぁ、お二人とも立ってないで、積もる話でもしたら良いわ。兄さまも、聞きたい事がたくさんあるのでしょう?」

「……そうだな。座ってくれ」


 ソファを勧められ、ダンが恐縮した様子で頭を下げた。ルキウスとダンが座ると、スヴェラの視線がロジェへと向けられる。


「ねぇ、気が利かないのね。ぼうっとしている暇があったら、お茶くらい淹れなさいよ」

「……っあ、申し訳……」

「シン。お前がやる必要はない。……ルトルク」


 扉の前に立っていたルトルクが、黙ったまま頭を下げる。

 ルキウスはロジェと目を合わせ、穏やかで優しい声色で問う。


「シン。別室で休んでおくか? 仕事の邪魔だろう」

「……兄さま。部下に甘すぎではないですか? 会話が煩いくらいで仕事を休むなんて、考えられない怠慢だわ」

「ルキウス様、ありがとうございます。大丈夫です、仕事を続けます」


 スヴェラを無視して、ロジェはルキウスへと微笑んだ。スヴェラから殺気の籠った視線で見据えられたが、こちらとしても敵に愛想を振りまくほどお人好しではない。

 ロジェは書類に目を落として、耳はしっかり彼らへと向ける。


「さぁロジェ。兄さまとお話しなさい。当時と同じ感じで良いのよ? 遠慮なんてしないで」

「しかし……」

「大丈夫だ。当時の話を聞きたい」


 ルキウスが言うと、ダンの息を詰める声が聞こえてきた。ロジェがちらりと目線を上げると、ダンは感極まったような表情を浮かべ、ルキウスを熱く見つめている。


「……っもう、もう会えないかと思っていたよ。記憶を失ったって聞いて、僕……」

「……ロジェ・ウォーレン。すまない、君の事も思い出せないんだ」


 ルキウスが言うと、ダンは眉を下げて微笑んだ。眦には涙が溜まっており、今でも溢れ出しそうだ。とても演技とは思えない様子に、ロジェも息を吞む。


「いいんだ。……ねぇ、ルキウス、ロジェと呼んで? 前はそう呼んでくれたろう」

「……俺は君を、ロジェと? そして君は、俺をルキウスと?」

「うん、そうだよ。さぁ、ロジェと呼んでくれるかい?」


 ダンの甘い雰囲気に、ロジェはぽかんと口を開けた。次いで、真っ赤に染まる。

 がばっと音がするほど俯いて、ロジェは心の中で叫び声を上げた。


(……っお、おいいいい……っ! 止めろ、そんなの俺じゃない! そんな言葉、俺は一度も言ったことないぞ……)


 ルキウスとの付き合いにおいて、ロジェは常に奥手だった。『好きだ』の一言も言えずじまいで、ダンのような甘い雰囲気を纏う事も無かったのだ。

 偽物ではあるが、ロジェの印象を違った形でルキウスに伝えて欲しくない。それにどうしてか、見ているこちらも恥ずかしくなる。


 ちらりと視線を上げると、ルキウスは真剣な表情でダンを見つめ続けていた。対するダンは大人の色気に溢れていて、ルキウスに熱い視線を注いでいる。


(……良く見ると……いや、良く見なくても……ダンって美形だな……)


 先ほどは気が付かなかったが、ダンが醸し出す雰囲気はどこか蠱惑的だ。

 端正に整った顔であるのに、唇の色は紅を差したような赤色をしている。そのアンバランスさが、目を惹きつけてしまう。


 ルキウスと並んで座ると、恋人同士かと疑ってしまうほど、お似合いに見える。

 つき、と胸が痛んだのは、気のせいではないだろう。


「ロジェ」


 ルキウスがダンを呼ぶ。

 耳を塞ぎたくなるのを、ロジェは必死に堪えた。


 ルキウスに『ロジェ』と呼んでもらえたのは、たった一度だけだった。あの日、身体を繋げたあの時の一度だけだ。

 それまでロジェとルキウスは、ウォーレンとウィンコットだった。

 それでも良かった。名前で呼び合うような仲になっていなくても、幸せだったのだから。

 

 しかしその幸せだった記憶を、今まさに汚されそうになっている。


「ルキウス」


 ダンが幸せそうにルキウスを呼ぶ。


 まるで深い深い谷間に、突き落とされたような気分だった。 

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