38.
「この馬鹿猫! 何してる!」
「……あ、やば……」
「そこにいろ!」
白銀の髪を激しく揺らしながら、ルキウスは馬から飛び降りた。そしてつかつかとこちらに歩み寄ってくる。
ロジェは咄嗟に首の後ろを手で覆った。何を怒っているか分からないが、公衆の面前で猫のような運搬は流石に勘弁してほしい。
ルキウスは歩きながら外套を脱ぎ、ロジェの肩へと掛ける。外套ごと抱きしめられ、ロジェは項を手で覆った姿勢のまま固まった。
「どうしてルトルクを待たなかった⁉ こんな身体で単独行動して、何かあったらどうするんだ!」
「い、いや、大げさですよ」
「……お前は本当に……自分がどんな存在か、まだ分からないのか?」
「……?」
縮こまった態勢のまま首を捻ると、ルキウスが腰を落とした。
ロジェの太腿の裏に逞しい腕が回り、そのまま抱き上げられる。ロジェは慌ててルキウスの首に手を回し、縋るように巻き付いた。
まるで子供を抱っこするような体勢に、羞恥心が込み上げる。こんなことになるんだったら猫運搬の方がましだった。
随分と高くなった目線で周りを見渡すと、ぽかんとこちらを見上げるコーレンと女性陣が見える。
「……っか、閣下! 恥ずかしいです、これ! これは駄目だ!」
「大いに恥ずかしがれ。これは教育だからな」
「教育? 一体何の……」
問うと、ルキウスの顔がこちらを捉えた。抱き上げられたせいで、顔と顔の距離が近い。
思わず口を引き結んでいると、ルキウスは額をロジェの額にこつんと当てた。
「……お前……熱が上がってきてないか? 熱いぞ」
「いや、恥ずかしいからですって!」
周囲の視線が痛くて、仕方なくロジェはルキウスの首元に顔を埋めた。しかし途端に大好きな匂いに襲われて、更に顔が熱くなる。
羞恥心と匂いにぷるぷるしながら抱きついていると、ぎゅっと抱きしめ返された。
「あぁ、可愛いな。俺の猫は」
「……っ!」
耳元にルキウスの笑い声が落ちてきて、旋毛には唇が降ってくる。
ここにきていきなりデレの猛攻である。ロジェの許容はとっくに限界を超え、混乱しながらルキウスに縋りつくしかなかった。
*****
いったいどうしたと言うのか。
ルキウスの執務室で、ロジェはひとり唸っていた。
目の前には立派な机があり、備えられた執務道具は一級品だ。これらは全てロジェの為に用意された物であるという。
今までは応接机で事務作業をしていたため、ロジェの机と言うものは無かった。道具は最低限のものを持参して、ルキウスの執務室で仕事をしていたのだ。
しかし今、ぴっかぴかの机には、いかにも柔らかそうな椅子が備えられている。座ると、信じられないほどの柔らかさに包まれた。こんなものに座って仕事をすれば、居眠り止む無しである。
ルキウスの近くに立つザザドが、呆れた表情で口を開く。
「え? アースター様は結局、荷物を取りに行けなかったんですか?」
「ええ、そのまま閣下にここへ連行されまして……」
「暫くはここの仮眠室を使え。鍵もかかる。身の回りの物は全て用意してやる。問題あるか? ないな」
最早拒否権などないような口ぶりに、ロジェは黙り込むしかない。
ルキウスの様子がどうもおかしいと気付いたのは、先ほど強制連行された時からだ。
馬に乗せられた後は、まるで壊れ物を扱うかのように抱きしめられた。既に許容を遥かに超えた情緒は、その場で爆発しそうだった。
黙り込んでしまったロジェを気遣ってか、ルキウスが書類から顔を上げる。
「……心配しなくても、身体が治れば居室に行かせてやる。数日だけ我慢しろ」
「えっと、はい……」
「今日はもう休め」
「え? 俺、もう働けますよ。こんなに良い環境を用意して貰ったのに……」
昨日は晩餐会で一日が潰れてしまったので、仕事が溜まっているはずである。
机の上の書類に手を伸ばすと、ルキウスからその場を凍り付かせそうな舌打ちが飛んできた。先ほどの態度からすれば、温度差がありすぎて風邪を引きそうだ。
「馬鹿猫。連行してやろうか?」
「いやっ、遠慮しておきます……!」
さっと手を引っ込め、口を引き結んだのと同時だった。
執務室の扉が叩かれ、ルトルクが顔を出す。相変わらず眠そうな眼だが、今日は少しばかり表情が強張っているように見えた。
ルトルクはルキウスの前まで進み、書類を差し出す。
「……ロジェ・ウォーレンの、件、です」
「……っ⁉」
どくり、と心臓が激しく鳴り、ロジェは跳ね上がりそうになった身体を咄嗟に抑え込んだ。ばくばく暴れ続ける心臓の音を聞きながら、ルトルクの言葉を反芻する。
ロジェ・ウォーレン。
彼は確かにそう言った。掠れて聞き取りにくい声だったが、確かに聞こえた。
「早かったな」
ルキウスが当たり前のように書類を受け取り、ロジェは更に追い詰められた。
どうして。どういうことだ。
混乱に吞まれたロジェが息を詰めていると、ザザドが眉根を寄せた。
「殿下。まさかお調べになるおつもりですか?」
「ああ。彼がもし生きていれば、記憶を呼び起すきっかけになるかもしれん」
「……彼に会うことで、何か弊害があるかもしれませんよ。それに……」
ザザドの視線が、ロジェへと向けられる。
その視線が何を意味しているのか、混乱しているロジェには直ぐに分からなかった。
ただ、ザザドの視線にはロジェへの気遣いが感じられる。ロジェ・ウォーレンがかつて、ルキウスの大事な人だと知っているからだろう。
「殿下にはもう、アースター様がいらっしゃるではないですか」
「……勘違いするな。ロジェ・ウォーレンが生きていたとしても、今の俺の感情が消えるわけではない」
「しかし……」
難色を示すザザドを置いて、ルキウスは書類に目を通し始めた。緑の眼がゆっくりと文字を辿り、睫毛が少しだけ下がる。
「……なるほど、ウォーレン家ではもう既に、ロジェは亡くなったことになっているのか。実家には帰っていないとなると、あの噂が気になるな」
「スヴェラお嬢様の話を信じるつもりですか?」
「もちろん鵜呑みにする訳じゃない」
(……やっぱりスヴェラ令嬢が絡んでたか……何をするつもりだ……?)
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