36.

++++++

 

 唇に、柔らかい感触が降りて来る。

 温かい何かが身体に流れ込んできて、ロジェは懐かしい感覚に身を委ねた。


「……シン……この馬鹿猫……」

 

 唇の上で、言葉が紡がれる。そしてまた唇に温かい感触を感じた。

 しっとりした唇が、何度も何度もロジェの唇に触れる。気持ちが良くて、まるで昔に戻ったような気がして、ただただ幸せだった。


(……あれ? まだ夢かな……夢かもな……)


 まだ微睡んでいるせいか、それとも先ほどまで過去の夢を見ていたせいか、意識がはっきりとしない。 

 とろとろと溶けて行きそうだが、このまま身を沈ませていたかった。


「…………心配した。死にそうだ。こんな痛み、知らない。……知らないはずなんだ……」


 辛そうなルキウスの声に、ゆらゆらと揺蕩っていたロジェの意識が浮上する。


 瞼を開こうと思ったが、どうしてか動かない。騎士らにしこたま殴られのを思い出し、ロジェは目を開くのを諦める。瞼が腫れ上がっているのだろう。

 ロジェの瞼が動いたことに気付いたのか、ルキウスが頬を撫でた。


「……シン?」

「……あ……たまが……いたい、ので……?」


 手を伸ばすと、柔らかい感触に触れた。ルキウスの頬だ。

 そのまま手を滑らせて、彼の髪に触れる。


 一緒に仕事をしていて感じたが、ルキウスの睡眠時間はあまりにも少ない。いくら魔族が睡眠をあまり必要としていなくても、身体の疲労を取り除くには睡眠が必要だ。

 ルキウスの慢性的な頭痛も、睡眠不足からきているのかもしれない。


(……昔は……良く寝るやつだったのにな……)


 ロジェはルキウスとごろ寝するのが好きだった。訓練の後、木の幹に凭れ掛かって昼寝したり、豊かな芝生の上で寝転んだりもした。

 寝落ちした彼の横顔を見るのが最高に幸せだったのを覚えている。


 ロジェは両腕をルキウスの首の後ろへ回し、促すようにぽんぽんと叩く。


「……おいで。寝ましょう」

「……っおい……」

「おれは、ちいさいから……はいれますよ」


 ぐっと腕に力を入れると、ルキウスから諦めのような溜息が降ってきた。

 腰と頭の下に手が差し込まれ、身体が横へとずれる。そして寝台の空いた隙間に、大きな身体が潜り込んできた。

 ふわりと愛しい香りが身を包んで、ロジェはつい笑ってしまう。


(……はは、これじゃ……俺の方が役得か……)


 ルキウスに身体を休めてもらおうと思ったのに、確実に自分の方が癒されている。

 ブランケットの中で抱きしめられ、ロジェはほっと息を吐き出した。ロジェの旋毛に、ルキウスの鼻先が埋まる。


「……ああ、本当に小さいな……」

「……でしょ。よゆーでしょ……」

「それに……良い匂いだ……」

「おれも……そう、おもいます……」


 ゆらゆらと瞼を揺らし、ロジェはルキウスの胸の中で欠伸を零した。先ほどまで寝ていたはずなのに、意識はどんどんどこかに吸い込まれていく。

 額をルキウスの鎖骨にぐりぐり擦りつけると、ぎゅっと更に抱きしめられた。


「……消えるなよ。シン……」

「……ん……」

「言ったな? ……嘘ついたら仕置きだぞ?」

「……ん」


 くすくすと優しい笑い声を聞きながら、ロジェは穏やかな眠りに身を預けた。



*****


 ごとごとと馬車に揺られながら、ロジェは隣に座るザザドを見る。雄々しい眉をこれでもかと寄せた彼は、胡坐をかいた姿勢でぎりぎりと歯を食いしばっている。


「……すみません、ザザドさん。こんな大きな馬車まで用意してもらって……」

「アースター様は何も悪くありません。まったくもって……嘆かわしい」


 ロジェが乗っているのは、王家が所有している荷馬車だ。椅子がないため、ロジェは横になったまま馬車に乗っている。

 座ることができないほど弱ってはいないのだが、ルキウスが許してくれなかった。

 

 昨晩はガイナスの勧めで屋敷に泊めてもらったが、早朝にはザザドが馬車で迎えに来ていた。ルキウスが夜中のうちに伝令を飛ばしていたらしく、ロジェは寝たままの状態で馬車へと乗り込んだ。

 そして今、昨晩の出来事を聞いたザザドは、額に青筋まで立ててしまっている。


「ザザドさん、悪いのは俺なんですよ。話し声が聞こえるからと言って、聞き耳を立ててしまったのが悪いんです」

「そりゃあ中庭でこそこそしている輩がいれば、俺だってそうします。しかも護衛らは、抵抗を示さないあなたを暴行した。騎士にあるまじき行為です」

「……まぁ、騎士だからこそって事もありますね。靴を脱がせて水ぶっかけて殴る……生意気な新人を懲らしめる、有名なやつなんでしょ?」

「良くご存じですね。しかし今は、禁止されています。あんな野蛮な事をするものがいれば、今では一発で称号はく奪です」


 昨晩の出来事は、双方に過失があるということで丸く収まった。どういう話し合いが行われたのかは謎だが、ロジェは拘束されることなく、こうして帰ることが許されている。

 そんなルキウスはというと、もう少し話し合いが残っているらしい。考えたくはないが、クラディルが関わっていないか心配なところである。

 ザザドがロジェを顔を覗き込み、悔しそうに眉を顰めた。


「あぁ……アースター様の可愛い顔が……」

「ザザドさん……可愛いは嬉しくないっす。……こんなの大したことないし、もう動けますって」

「殿下がどれだけ胸を痛められたか……」

「そうでもなさそうですよ。今朝も馬鹿猫って怒られましたし……熱も下がったから」


 ゆっくりと上体を起こしてみても、殴られた場所が少々痛むだけだ。歩くのも問題ないだろう。

 窓の外を見てみれば、もう第一司令部の前まで来ているのが見えた。そのまま門を抜け、ルキウスの執務室がある棟へと馬車は向かっていく。


「アースター様。殿下からの命令で、居室を移してもらうことになりました」

「え? どこに?」

「執務室がある第一棟です。もう部屋の準備は整っております」

「……なるほど」


 ロジェの所属である第三科からルキウスの執務室までは、確かに遠い。

 毎日執務室に通うのが面倒だと思ったことは正直あった。第一棟に寝床が移るなら、ロジェとしては万々歳である。


「荷物の移動はどうされますか? ルトルクに頼んで持ってきてもらいましょうか?」

「い、いや! 駄目です! 少ないし、俺が運びます」

「そのお身体で? 心配ですから、ルトルクを同行させましょう」

「い、いや。荷物は少ないので、本当にお気になさらず……」


 ロジェは出向者なので、最低限の荷物しか持ってきていていない。しかしその大半が見られたくない荷物である。

 特に抑制剤やマグウェルの手紙などは、絶対に隠し通さなければならない。

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