35.
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____15年前
アカツキ領主の屋敷は広い敷地を持ち、一角には大きな教会がある。
修道院には孤児院や保護施設があり、ロジェは暫らくそこで生活した。マグウェルや修道士たちの手伝いをして過ごし、気が付けば合同訓練の事件から丸一年が経っていた。
昼を告げる鐘の音が聞こえ、ロジェは窓の外に視線を向ける。子供たちがわらわらと外へ飛び出し、食堂に向かうのが見えた。
半魔として生まれた子や、魔族として生まれながらも親を失くした子。ここには様々な種族が共同で生活しているが、諍いや差別などは無縁で、いつも穏やかな空気が流れている。
午前の診療を終えたマグウェルが、ぐっと背伸びをしながら、きゅっと長い耳を跳ね上げる。
今日は朝から診療所でマグウェルの手伝いをしていたが、午後からは修道院で作業をすることになっている。
ロジェは窓の外を眺めたまま、マグウェルへ問いを投げる。
「……先生。俺……どうして半魔のままなんだろう……」
診察台を整えていたルーナの手が、ぴたりと止まった。
魔族によって半魔へと転化させられたルーナは、キキを出産して再びヒトへと戻った。しかしロジェは未だに半魔のままだ。
マグウェルは背伸びをしたまま止まったあと、一つ息を吐いた。
「すまん、ルーナ。ロナン修道士から物を受け取って来てくれないか?」
「……分かりました」
ルーナが立ち上がり、部屋を出て行く。足音が遠ざかった頃、マグウェルは診察台をぽんぽんと叩いた。
ロジェがそこに座ると、マグウェルは椅子を引き摺って、膝が触れるくらいに近付く。内緒話でも始めそうな雰囲気に、ロジェはぱちぱちと目を瞬かせた。
「……えっと……」
「シン……よく聞いて欲しい。……これまで君には、魔族には関わるなと口酸っぱく言ってきたよな?」
「……はい」
「うん。魔族は自分勝手で傲慢だ。関わるのなんて一度で十分。……だから言わないでおこうとも思ったんだが……。おっと、その前に聞きたい。……君のかつての相手は、魔王族の皇子、ルキウス・ウィンコットだな?」
「……っ」
ロジェが口ごもると、マグウェルは頭を抱える。
「やっぱそうかぁ。そうだよぁ……」
「お、俺……追い出されますか?」
「まさか、そんなことしない。ここは君たちのような者らを保護する施設だよ?」
「でも、だからこそ……危ないんじゃ……」
ここアカツキには、魔族に虐げられた人達がたくさんいる。
ルーナをはじめ魔族に辱められた人達は、ロジェと顔を合わせる度に、魔族の危険性を訴えてきた。
ルキウスを想い続けるロジェを心配し、「忘れなさい」「諦めなさい」と説得してくるのだ。
彼女らは魔族を憎み、魔族の愛を信じない。そして誰よりも、魔族を恐れている。
「大丈夫。……その点は心配しなくて良いよ。ここアカツキは何百年も、ルーナたちのような人々を守り続けてきたんだから。衛兵のレベルも王都の騎士団に劣らないほどだ」
ぼさぼさになった髪をかき上げて、マグウェルは困ったように笑う。そして長い指を膝の上で組み、こつりとロジェの膝を小突いた。
「さて本題。どうしてシンがまだ半魔のままなのか、についてだ」
「っ、はい」
ロジェがごくりと唾を飲み込むと、マグウェルは眉を下げて柔らかく微笑む。まるで降参だ、とでも呟きそうな表情だ。
「あのな、シン。本当にごく一部だけど……魔族の中でも、本当にヒトを愛する者もいる。彼らのパートナーになったヒトと、ルーナみたいに望まず関係を持ったヒトとは、違いがあるんだよ」
「違い?」
「ああ。本当に魔族に愛されているヒトは、半魔からヒトに戻らない。どうしてか分かるかい?」
ロジェが首を横に振ると、マグウェルは大げさに手を大きく広げた。そして大仰に「愛だよ」と言い放つ。
ロジェが目をぱちぱち瞬かせている間に、マグウェルは次の言葉を紡ぎ始めた。
「そう、愛の大きさが違うんだ。シン、君はずっと、ルキウス皇子に愛を注がれていたみたいだね。一度の性交渉じゃ、君のようにはならない。もしかしてその前にも……」
「う、えぇ! ち、違いますよ! 最後にしたのが……俺、ほんとに初めてで……」
「え? じゃあ童貞?」
「マグウェルさん! それって関係ありますか⁉」
耳まで熱くなって、ロジェは思わず拳で口を覆った。マグウェルは首を捻り、平然と続ける。
「おかしいな。では、肉体的接触は? 頻度は?」
「……っにく、にくたい⁉ いやっ……いや? えっと、……き、キスは……してたけど」
「あ~それだね。ふか~いやつ、やってたでしょ?」
「……~~っ!」
ルキウスとは毎日手合わせをし、その後の休憩には必ず唇を合わせていた。ケアと称したそれはロジェにとっても癒しだったが、忙しい時でもルキウスはかかさずキスをしていたように思う。
手合わせの後や訓練後などは、当たり前のように唇を合わせていた。
「じゃあ決定だ。……魔族の中でも特に、神獣を始祖に持つものは、番となる者に並々ならぬ愛情を注ぐんだよ。彼らは力が強いから、もしも他種族を愛してしまった場合は、強制的に同じ種族へと引き入れる力も持っている。愛情をたっぷり含んだ魔力を毎日流されちゃ、半永久的に半魔にもなる可能性も高い」
「……そっか……」
ロジェは顔を伏せて、膝頭を鷲掴んだ。目の前がジワリと滲み始める。
ルキウスと身体を重ねたあの時、ロジェの身体には明らかに変化があった。恐らくあれが、オメガのヒートというものだったのだろう。
オメガのフェロモンはアルファを誘惑し、理性を消し去ってしまう。
ルキウスは項を噛んでくれたが、果たしてそれが彼の意志だったのか、今となっては分からないままだった。聞くことはおろか、会うことだって出来ない。
「ずっと……不安だったんです……。俺のフェロモンのせいで……あいつは望まないことをしたんじゃないかって」
「馬鹿な、何を言ってるんだ。ルキウス皇子は君を転化させて、手に入れるつもりだったんだよ。これ以上ないほどの、清々しい確信犯だ」
「……う~ん……そうなのかなぁ。あいつ、俺のこと馬鹿なヒト族としか思ってなかったと思うんですが……」
マグウェルの言う通り、本当に愛されていたとしたら、一体いつからだったのか。
記憶を辿るが、ロジェにはさっぱり分からない。
しかしあの幸せなひと時が、彼の態度や視線が、愛に溢れたものだったとしたら、こんなに嬉しいことはない。
しかしもう、あの美しい瞳を向かい合って見ることは出来ないのだ。
喉がぐっと詰まって、唇がへの字に曲がっていく。子供みたいに泣き叫びたくなって、ロジェは顔を伏せた。
マグウェルはそんなロジェに気付くことなく、更に捲し立てる。
「しかもだ。誰かさんはどーしても、シンを孕ませたかったんだろうね。ヒトを強制的にオメガに転化させる力を持つ一族と言えば、スコル族しか思いつかない。だから私は、君の相手がルキウス皇子だと分かったんだ。アルファやオメガといった第二の性が出来たのは、太古の昔、スコル族と交わったからだと言われていて……って、シン? 聞いてる?」
「……」
俯くシンの旋毛を見て、マグウェルがはっと息を呑んだ。
妖精族であるマグウェルは、興味深いものを前にすると夢中になってしまう。説明しながら自分自身が夢中になり、べらべらと捲し立ててしまうのだ。
しかしシンは、そんなマグウェルに何度も救われてきた。ルーナたちから一線引かれている中で、彼は変わらず接してくれていたからだ。
「シ……シン……? ……ああ、もう、ご、ごめん……。本当に僕というやつは……つい、ヒトの気持ちも考えず……」
「違うんです、マグウェルさん。……俺、嬉しいんです。愛されていたって知れて、本当に嬉しかった……。……でも……もうルキウスには会えませんよね……」
「ああ、そうだね。……彼の側に行くのは、今は無理だね」
合同訓練の悲劇は、衝撃と共に国中に広まった。生き残ったルキウスが記憶喪失になったことも、新聞で隠すことなく報じられている。
ルキウスの中からロジェは消えてしまった。
それでも、ロジェがルキウスの弱みだという事は変わりない。ルキウスは覚えていなくても、襲撃者はロジェを覚えているかもしれないからだ。彼に会うことは出来ない。
マグウェルの手が、堅く強張っているロジェの上に重ねられる。
「……でも君は、愛されていた。ほんとうに、たっくさん、たくさん愛されていたんだ」
「はい……先生」
項がつきりと、まるで存在を主張するかのように痛む。
噛み痕は守れなかったが、皮膚の下には彼の魔力が巡っている。それがこの上なく嬉しかった。
「魔族の国は、15歳から成人でしたよね?」
「……そうだけど、どうして?」
「……おれ、またあいつに……会いたいんです。……会いたい……」
赤子が大人になるほどの期間が経てば、またルキウスに会えるだろうか。
当時の事件が風化すれば、彼の隣に立つことができるだろうか。向かい合う事は出来なくても、少しでも支えることぐらい、もしかして出来るかもしれない。
いや、今からだって、遠くから支えられるかもしれない。そう思うと、希望が湧いてくる。
ルキウスはいつだって、ロジェの希望だった。
希望は、自分が手放さない限り、誰からも奪われやしない。
「……シン、泣かないでおくれ……。……ああ、神は……本当に残酷だな……」
「……いいんです、先生。……もしまた会えたら、今度は俺が……嫌と言うほど愛を捧げます」
マグウェルが腰を浮かせ、ロジェの頭を抱き込む。喉の奥が閊えて、代わりに涙がぼろぼろと漏れ出した。
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