27.
*
その日から、ロジェの日常は一転した。ルキウスの秘書官として側に置かれることとなったのだ。
しかしそれは肩書きだけで、文官としての職務は引き継いだままだ。
主にルキウスの執務室で作業をし、各部門から提出される文書を受け取る。
多忙は相変わらずだったが、ルキウスが近くにいると諸々の仕事が捗る。面倒な中間手続きが必要なくなったからだ。
そして数日間ルキウスの近くで過ごすうち、色んなことが分かってきた。
「ザザド、東南の関所に兵を送れ。もうすぐケルピーの繁殖期だ。今年は早い方が良い」
「了解いたしました。軍部へ指示を送ります」
「午後の会議までに対策を練ってくるように言え。俺も出席する」
「御意。午前の会議の予定ですが……」
(……おいおい、一日何回会議するんだよ……)
ロジェの予想以上に、ルキウスは多忙だった。信じられないほどの仕事量をこなしつつ、律儀に各方面の会議に参加する。
ルキウスの厳しい叱責に怯える部下も多いようだが、彼の丁寧な仕事ぶりを見れば誰も文句は言えないようだ。
ルキウスはどんな案件でも軽んじない。その姿勢を続けていれば、彼を敬愛し支えようとする者たちは増えて行く。脱落する者も多いが、それに比例して忠臣が多いようだ。
(それにしても、忙しすぎだよなぁ……。夜も仕事しかしてないし……)
この間までは誰かを抱いていた時間も、ルキウスは仕事に充てるようになった。
思えばルキウスにとってあの行為は、仕事の一環だったのかもしれない。
毎夜用意される夜の相手を無下にも出来ず抱いていたとしたら、何とも不器用な人だと再認識せざるを得ない。
(……そういえば俺も、あれから抱かれてないな……)
ルキウスの秘書官になってから、どうしてか抱かれることも無くなった。代わりに毎晩のように馬小屋に呼び出され、散々撫でまわされている。
最初はロジェも戸惑っていたが、子猫らの可愛さも相まって、ルキウスの奇行に慣れつつあった。
黙々と書類を捌くロジェの耳に、ルキウスの怒号が飛び込んでくる。
「あれほどの任務で死傷者を出すなどと、お前の指揮はガキの遊びと一緒か⁉」
「っも、申し訳ございません!」
深く頭を下げる騎士と、まったく動じないザザドとルトルク。この光景も見慣れてきた。
ルキウスが怒ると、その場は比喩でもなく凍り付く。冷気が床を這って広がり、ロジェまでガタガタと震えそうになるのだ。
冷徹、厳格な将軍とは正にその通りで、ルキウスは非常に怒りっぽい。
ロジェは立ち上がり、例のバーカウンターへ足を向けた。酒ばっかりだったこのカウンターにも、ロジェが来てからは茶器が並ぶようになった。
「閣下、お茶を淹れました」
「……後にしろ」
一瞥もくれず、ルキウスは言い放つ。しかしロジェは怯まない。
「閣下。……ルキウス様」
「……チッ」
噛みつくように舌打ちし、ルキウスはロジェへと顔を向ける。美麗な眉は波立って、眉根には渓谷のような皺が刻まれていた。
美男の憤怒顔というのは非常に迫力がある。ロジェも以前だったら怯えていただろう。
しかし今、ロジェの立場は彼に寵愛されている男なのだ。例えそれが偽だとしても、ここは怯むべきではない。
ルキウスの執務机にティーカップを置き、ロジェは可憐に微笑んで見せる。すると彼はぐっと言葉、もしくは罵倒を飲み込んだあと、無言でティーカップを手に取った。
カップに口を付けると、ルキウスの眉根の皺が解けていくのが見て取れる。
(……よかった。正解みたいだ……)
ルキウスは昔、ロジェに様々な種類の茶を飲ませてくれた。彼は意外にもお茶の時間が好きで、紅茶や当時まだ珍しかった珈琲にも手を出していたのだ。
ルキウスと一緒にカフェに通い、茶葉や珈琲豆を売る店にも行ったことがある。今ではロジェもすっかりお茶通になってしまった。
今回ルキウスに出した茶も、彼好みのものだ。お茶を飲めば心も落ち着くだろう。
ロジェは黙って頭を下げ、自分の机へ戻る。
耳を傾けたが、もう怒号は聞こえる事はなかった。ほっと息をついて、ロジェは目の前の書類へと集中した。
*****
最近妙に仕事が捗る。そう気付いたのは、華奢猫を秘書官に迎えてから数日が経った頃だった。
執務机を見下ろして、ルキウスは何とも言えない感情を持て余す。
優先順位に並べられた書類、羽ペンはいつも使い勝手が良いように整備されている。インク瓶すらも拭きあげられてると気付いた時は、思わず頬が緩んでしまった。
ルキウスは基本、自分の持ち物を他人に触られるのが苦手である。側近の二人はそれを熟知しており、余計な事は一切しない。ルキウスが秘書官を置かないのも、他人に干渉されるのが煩わしかったからだ。
しかしどうしてか、シン・アースターには煩わしさを感じない。
シンは朝一番に執務室を訪れ、全てのカーテンを開け放つ。窓を開けて淀んだ空気を追い出し、爽やかな空気の中を執務室へ取り入れる。
ルキウスは窓を開くのが嫌いだった。陽の光は頭痛を呼び起こし、緑の香りはいつかどこかで失ったものを思い出しそうになるからだ。
しかしそこにシンがいれば、なぜか満たされるような感覚が湧き出してくる。そして胸の奥が、くすぐったくなるのだ。
今朝もシンは、朗らかな空気の流れる執務室で、無邪気に微笑む。
「おはようございます、閣下。あ、ルキウス様」
「……いい加減慣れろ、馬鹿猫」
「はい、申し訳ありません」
「……」
眉を下げて、シンは本当に申し訳なさそうに微笑む。柔らかな髪が憂いと共に揺れて、彼の白磁の肌に影を落としてしまう。
違う。謝らせたい訳ではない。
しかし長い事錆付いていたルキウスの心は、滑らかに動き出すことが出来ない。シンに掛けるべき言葉も思いつかない。そしていつも黙り込んでしまう。
「ルキウス様、カーテンの色を変えても差支えないですか?」
「……好きにしろ」
「はい! 好きにします!」
先ほどとは一転、シンは満面の笑みを浮かべる。
その笑顔が好ましいと感じたのは、いつからだったか。
シンの笑顔は、まるで子供のようだ。
可憐な笑顔を浮かべているつもりなのだろうが、そこには弾けんばかりの無邪気さが含まれている。
嬉しくて嬉しくて仕方がないといった笑顔を見ると、ぐっと胸が詰まることがある。
シンが倒れたあの日、ルキウスは彼の背中の傷を見た。
項から肩甲骨にかけて付いた傷は、明らかに魔法によって付けられた傷だ。熱によって赤く腫れあがった傷痕は、今でも後遺症に悩まされていることが窺い知れた。
そしてそれと同時に、シンが着衣での行為を望んだのは、この傷痕を見せたくなかったからだと気付いてしまったのだ。
(……俺に、傷痕を見せたくなかったのは何故だ。……何か意味があるのか?)
シンを抱き始めた頃のルキウスには、彼への情など一欠けらもなかった。
もしもあの日、シンの傷痕を見ていれば、その後は呼び出すことも無かっただろう。魔傷に悩まされている者を、続けて抱き潰すほど冷酷ではない。
あえて傷痕を隠さないでおけば、ルキウスに執着される可能性を減らせたはずだ。しかしシンはそうしなかった。
頑なに隠し、そして露見したと分かっている今でも、その傷痕の話題には触れないでいる。
シンは何かを隠している。その方向がどちらを向いているのか、ルキウスは気になって仕方がなかった。
「……シン。……お前、出向元に帰るのはいつだ?」
「来月です。それまで精一杯、役割を務めさせて頂きますね!」
「……そうか……」
ルキウスは手を伸ばし、シンの身体を抱き寄せた。彼の頭に鼻を付け、その香りをすぅっと吸い込む。
朝露に濡れる花のような香り。この香りも心底好ましいと言える。
抱き寄せたシンの身体が、戸惑ったように揺れた。
「あ、あの……人前ではないですが……」
「人前じゃないと、お前を抱きしめられないのか?」
「いや、良いですけど……。良いですけど……」
「良いけど、なんだ?」
ルキウスはシンの柔らかい髪を撫でて、小指でするりと耳朶を弾く。彼の身体が硬直するのを感じると、喉の奥からくつくつと声が漏れていく。
(……ああそうか。……幸せ、とはこの事か……)
長い間感じる事のなかった小さな小さな幸せを、ルキウスはぐっと噛み締めた。
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