25.
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項に指を滑らせ、ロジェはふと笑いを零す。
(_____ 結局、ヒートは16年間一度も起こらなかったんだよな。……都合は良かったけど、ちょっと残念だったのも確かだ)
ルキウスから付けてもらった番の印。それが魔傷で消されて、意味を成さなくなったと思うと怖かった。しかしフェロモンは依然として出なかったので、望みは失くさずに済んでいたのだ。
ロジェは薬瓶を揺らし、その蓋を開ける。
(……ヒートは来なかった。だけどそれは、ルキウスが側にいなかったからだ。もしも番が有効なら、俺が未だにオメガなら、ルキウスの近くにいると、ヒートを起こしてしまう可能性が高い)
だからこそ、ロジェはこの職場に来てから抑制剤を欠かさなかった。
ルキウスと関わることがあれば尚更、念を入れて飲み続けた。その結果、過労もあってか派手に倒れてしまったのだ。
薬による副作用で、ついに身体が悲鳴を上げたのだろう。
(……やっぱ、ルキウスと関わらないのが一番だよな……。だけど……あいつの願いは……なるべく叶えてやりたいし……)
やっとルキウスの近くへと来れたのだ。
以前は遠くから情報を提供するだけしか出来なかったが、今は微力ながら側で支えられる立場にもなれた。
それに、期間限定の出向者として来たのは、発情期の周期に備えるためでもある。予兆があればアカツキに帰る手筈も整っていた。
ロジェは鏡から離れ、寝台に横になる。マフラーからふんわりとルキウスの香りが漂ってきた。
多幸感に包まれ、ロジェは目を閉じる。
この幸せは、享受してはいけないものだ。
自分には似つかわしくないものだ。
しかし本能は逆らえず、瞼が重くなっていく。
(……ごめん、ルキウス……)
ロジェは番の印を守れなかった。だから彼は、何もかも忘れてしまったのかもしれない。
今更、自分が番だなんて言うつもりはさらさら無い。ただ、ルキウスの役に立ちたいのだ。
「……おれの、ひかり……」
呟くと、ゆっくりと闇に吞まれていった。
*
数時間後、飛び起きたロジェは顔を青ざめた。窓の外は橙色に染まっており、紛れもなく夕方であることを示している。
寝坊した。そう認識するよりも早く、ロジェは寝台から飛び出した。
慌てて文官の制服へと着替え、半長靴に足を突っ込む。足を縺れさせながら自室の扉を開くと、なんとそこにはザザドが立っていた。
いつからいたのかは不明だが、いつものように穏やかな笑みを浮かべている。
「アースター様、お迎えに上がりました」
「……ざ、ざ、ザザドさん……おれ、寝坊……」
「はい。良く眠ってらっしゃいましたね。呼びかけにも反応がありませんでしたから」
「……俺、殺される?」
「まさか」
扉に縋るようにしていたロジェに対して、ザザドは終始穏やかだ。後ろにはルトルクも控えているが、相変わらず眠そうにしている。
明らかに昼食の時間は過ぎているのに、ルキウスの側近たちからは焦りの様子が見えない。何を言われるのかと身構えていたら、ザザドが頬の傷痕を引き攣らせながら笑う。
「ご心配には及びません。殿下にはきつく言っておきましたから」
「……きつく?」
「ええ。昨日まで寝たきりだった方に『昼食は俺につけ』などと良く分からない事を仰っていたので……。アースター様、どういう意味だと捉えていましたか?」
「食事の補助か、仕事の話かと」
「でしょうね。……意思疎通の拙さは、これから改善されていくと思いますので、御辛抱を……」
「……?」
ロジェが首を傾げると、ザザドは一歩後退した。そしてロジェの頭の上から足までを見回して、うんと頷く。
「体調はいかがでしょうか。これから少しお時間取れますか?」
「ええ、大丈夫ですが……」
「では、あの猫のマフラーを付けて、一緒に参りましょう」
「……? 分かりました」
ロジェは一旦部屋へ戻り、枕元に置いてあったマフラーを手にする。巻きつけながらザザドらと合流し、誘導されるがまま付いて行った。
朝方と同じくらいの気温だが、風は幾分か冷たくなっている。マフラーをしてきて良かったと思いつつ、ロジェはザザドの大きな背中を追いかけた。
いくつかの棟を抜け、ルキウスの私邸へ抜ける庭へと足を踏み入れる。またあの屋敷に行くのかと思いきや、ザザドは途中で進路を変えた。
向かう先にあったのは、なんと馬小屋だった。もう終業の時間なのか、飼育係の姿は見えない。しかし篝火は焚いてあり、日が落ちた馬小屋を明るく照らしている。
馬小屋の角に、ルキウスの姿が見えた。シャツとトラウザーズだけといった軽装で、腕を組んで木枠に凭れ掛かっている。
どことなく憂いを含んだ表情が、最高に格好いい。どんな姿でも様になる男だ。
ルキウスはロジェを見るなり、人差し指を唇に押し当てる。そして顎をしゃくり、馬小屋の中を示した。
(……ん、中に入れって? なんだろう……?)
入口に近寄ると、みぃみぃと小さな声がする。まさかと中を覗けば、藁の上に大ぶりな猫が横たわっていた。その周りには手の平よりも小さな子猫たちが、よたよたと歩き回っている。
ロジェは口を手で覆い、漏れ出しそうな声を飲み込んだ。殆ど崩れ落ちるかのように、その場に膝をつく。
(………っ、か、か、かわ……ぁあ……あ……)
親猫が警戒するかと思ったが、意外と彼女の眼は穏やかだった。侵入者であるロジェに逆毛を立てることもなく、子猫らも同様に怯えを見せない。
背後にいるルキウスが、珍しく穏やかな声色を零した。
「……近付いて良い。親猫には魔獣の血が混じっていて、俺が主だと思っている。何もしない」
「⁉ いいんでしゅか⁉」
思わず舌を噛んでしまったが、ロジェにはもう目の前の愛くるしい猫しか見えていない。
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