17.
ロジェの視界に、きらきらと光の粒が落ちて来る。
ああ、綺麗だ。なんて幸せなんだ。溢れ出る涙が、光の粒をじわりと滲ませる。
輪郭を失った光も美しくて、ロジェはうっとりと顔を蕩けさせる。
その頬に、こめかみに、そして噛み痕が付いた項に、次々と唇が降ってきた。
「愛してる。愛してる、ロジェ……」
『___俺も』
そう口に出来なかったことを、ロジェは今でも後悔している。
大好きなルキウスの姿を見たのは、それが最後になったからだ。
そして数年の時が経ち、ロジェはルキウスに再会した。しかし彼は、あの時の彼とはまったく違っていた。そしてロジェの事を一切覚えてはいなかったのだ。
彼に何があったのか、ロジェには分からない。だけどロジェは、その身をルキウスに捧げると決めていた。
たとえ彼が、ロジェを思い出さなくとも。
+++++
「ん……」
喉から出た声は、酷く掠れて小さかった。
頭はぐらぐらと茹って、吐き出す息までが熱くて救いがない。苦痛から逃れようと、ロジェはまた意識を沈ませようとした。しかしそれを引き戻す声が近くから響く。
「おい、寝るな。いま水をやる」
「……いら……な……」
「飲め。死ぬぞ」
強い力で引き起こされ、ロジェの上体は何かに凭れ込んだ。懐かしい香りに包まれて、ひどく安堵する。
唇に冷たい感触がして、口内に水が流れ込んできた。
舌の上を冷たい水が通り過ぎ、喉まで辿り着く。しかしあとは嚥下するだけだというのに、喉がうまく動かせない。
飲めなかった水が口の端から溢れ、首筋まで流れていった。
ち、と舌打ちが落ちてきて、ロジェの意識は少しずつ明瞭になっていく。
「……かっ……か……? もうし、わけ……」
「違う、謝るな。……もう一度、飲めるか?」
「は……い……」
今度はゆっくりと水が流し込まれる。ロジェは小さく何度も嚥下して、なんとか飲み下した。
冷たい水が喉を通り、熱を持った身体に染み渡る。気持ちがよかった。
「次はこれだ。口を開けろ」
「……は……」
「返事はいらん。開けろ」
口を開けると、今度はとろりとした液体が入ってきた。甘く冷たい液体を歓迎するように、ロジェはこくこくと喉を鳴らす。すると、今度は安堵の吐息が耳へと届く。
ロジェの身体を後ろから支えているのは、恐らくルキウスだ。どんな表情をしているのか見たくて、ロジェは頭に力を入れた。しかしぐらぐらと揺れるばかりで、上手くいかない。
そのうち瞼が重くなり、くたりと身を預けてしまう。
早く身体を動かさないと、きっとルキウスは不機嫌になってしまうだろう。
ロジェの焦りを感じたのか、ルキウスの手がそっと額を覆う。大きな手で目まで覆われると、とろりと意識が解けていく。
訳もなく涙が溢れ、頬を伝った。それを拭う指の感触は冷たいが、しかし優しい。
「……どうして泣いている?」
「……」
その声色は、いつもの冷たいものとは違っていた。16年前、ロジェが心の底から愛したルキウスのものと同じだ。
しかし彼は、『ロジェ・ウォーレン』を覚えていない。ロジェに関することは何も、ひと欠片も彼の中には残っていない。
それなのにどうして、ルキウスはそんな声を出すのだろう。かつての親友のような、情の籠った声を。
(……ああ、そうか。これは夢だ……)
いつも見る夢は過去の繰り返しで、こうした希望の溢れた夢を見るのは久しぶりだった。
あんなに冷酷だったルキウスが、ロジェの涙を拭ってくれている。そんな事が、現実にある訳がない。
「泣くな、アースター」
「……」
『ロジェ・ウォーレン』は死んだ。今、ルキウスの目の前にいるのは『シン・アースター』なのだ。
もうロジェとして、彼の前に立つことはない。
また零れ落ちた涙に、柔らかい何かが触れる感覚がした。
*****
目の前で眠る男を、ルキウスは複雑な思いで見下ろした。心に湧く感情は本当に『複雑』の一言で、どう表して良いか分からない。
これまで味わったことのないような、反して酷く懐かしいような、そんな感情だ。
(……医師には診せた。過労だと聞いた。……死ぬ病ではないと聞いている。……それなのに、なぜ……こんなに心が落ち着かない?)
シンが倒れたその日、ルキウスは直ちに半魔の医師を呼び寄せた。
過労と栄養失調、そして薬の過剰摂取により、魔力の流れが正常に行われていないとの診断だった。
過労に対しては、ルキウスも原因の一つだ。その自覚は十分にある。
しかしその事に関して、ルキウスはこれまで一欠けらの罪悪感も持ち合わせていなかった。
そう、シンが倒れるまでは。
今までの夜伽役はルキウスが手荒く抱くと、直ぐに音を上げた。気を失うまで耐えた者は稀で、大抵は途中で許しを乞い、清掃班に回収させる事が常だったのだ。
執務室のある階層には、そんな彼らを休ませる部屋がある。そこに入った者たちは手厚い介護を受け、翌日は昼過ぎまで眠っていることが多い。
だからこそ、抱いた翌日に当たり前のように働いているシンを見て、ルキウスは心底驚いたのだ。
(……こいつは、どこかおかしい。……一体何の目的があって、自分を犠牲にしてまで受け入れる必要がある?)
文官として報告に訪れたところを、ルキウスによって理不尽に抱かれた。出向元に訴えれば、即日帰れるほどの所業である。
それでなくても、次の日に休暇を貰うことぐらい出来たはずだ。しかしシンはそうしなかった。
しかも翌日もその次の日も、シンはルキウスの呼び出しに応じている。そこまでする理由がまったく見えてこない。
まさかそこまでするとは。
こんなことになるとは思ってなかった。
そんな言い訳がましい言葉を吐きそうになり、ルキウスはぐっと唇を噛み締める。
涙しながらルキウスを受け入れるシンは、たまに切なそうな表情を見せることがあった。
しかしルキウスは、その情が籠ったような表情が気に入らず、苛立ちをぶつけるように抱き潰していた。
しかし今になってその表情が、恋しくて仕方がない。
あの表情になんの意味があったのか、知りたくて堪らない。
(……お前は一体、何者なんだ。……シン・アースター……)
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