16.

 喉元の剣など気にもかけず、ロジェは男の頭に手を伸ばした。剣が鎖骨に突き刺さる痛みすら糧にして、男の髪を鷲掴みにする。

 後方へと髪を引っ張れば、男の手が僅かに緩んだ。ロジェはその隙をついて男の脇腹に肘をめり込ませ、その身体から抜け出す。


 男は痛みに呻いていたが、直ぐに体勢を立て直してきた。立ち上がろうとしているロジェに男の手が伸びるが、地面を蹴って必死で逃れる。

 ロジェが腰の剣を抜いて構えると、相手も攻撃の体勢を整えた。


 初めて対面する男は背が高く、魔族らしい体格をしていた。

 真っ黒な服に真っ黒な仮面をしており、髪も黒の布で隠している。一切の特徴を消した姿と威圧感に、神経がぴりっと危険信号を発した。


 逃げろ、敵わない。そう本能が告げている。しかし逃げ切れる可能性も低いだろう。

 捕まればルキウスの弱みとなり、一生囚われの生活を送ることになる。


 そんなの、死んでもごめんだ。


 渾身の力を込めて斬り掛かれば、男はそれを容易く躱した。しかしその瞳には、僅かに驚愕が見て取れる。ロジェの剣が存外に鋭かったのだろう。


 ロジェは攻撃の手を緩めることなく、今度は横凪に剣を払った。男は飛び退いて剣を避けるも、僅かに遅い。服と共に皮一枚が裂け、血が飛び散る。

 ロジェは細く息を吐いて、男を見据えた。


(……落ち着け、思い出せ。ずっとあいつと稽古してきた。……あいつなんて、足元にも及ばないだろ?)


 剣の柄が雨でぬめる。ぎゅっと握り込んで、ロジェは次の攻撃へと体勢を移行した。しかし急激に、手から力が抜けていく。


「…………ッぁ……れ……?」


 次いで、身体の真ん中がずんと重くなり、腹の奥から熱さが込み上げた。

 抗いようのない熱が、身体中を駆け巡る。狂おしいほどの熱に突き上げられ、ロジェは胸元を鷲掴んだ。

 敵の存在など忘れてしまうほどの感覚が、濁流のように襲ってくる。


「……っ、あ……? っが……ッあぁ……!」


 思わず膝を折って、べしゃりとその場に突っ伏す。泥水が口に入り込んでこようとも、身体は少しも動かない。

 魔法攻撃か、と混乱する頭で考える。しかしその思考も熱の濁流によって攫われてしまう。

 自分という生き物が、何かに変わっていく。そんな感覚で覆いつくされる。ただただ恐ろしかった。

 しかし次の瞬間、まるで光が差すかのように、ロジェは何かに包まれた。


(……? この……匂い……)


 香りがロジェを包み込むと、身体中を巡っていた熱が温かさに変わっていく。ぬるい湯に浸かっているような感覚になり、思考がとろりと解けていった。

 そして耳に届いたのは、愛おしくて仕方がない声だ。


「……ウォーレンッ! ああ、嘘だ! なんてことを……!」

「………っ、うぃ……こっ、と……?」

「ああ、俺だよ。もう大丈夫、大丈夫だから……」


 頭の下に優しく手を差し入れられ、ロジェはその手にくたりと身を任せた。膝裏にも手が回り、そのまま抱き上げられる。


「……て、き…………」

「それも、全部大丈夫だ」


 ルキウスの首に手を回そうとしたが、少しも腕が上がらない。

 手を巻き付けなければルキウスの負担が増えてしまうのに、ロジェにはそれが出来なかった。腕はだらりと下へと垂れるだけだ。


 身体はまるで骨が抜かれたようにくにゃくにゃで、頭はもっと使い物にならなかった。ただ、ルキウスに抱きしめられているのが嬉しくて、涙だけがぼろぼろと流れ出る。

 ルキウスはそんなロジェを見て、辛そうに顔を歪めた。


「ウォーレン、泣かないで。ああ、どうか……どうして……どうして『』なんだ……」


 許しを乞うように、ルキウスはロジェの目元に唇を落とす。

 くすぐったくて嬉しくて、悲しくて泣いている訳じゃないと伝えたくて、ロジェは口元に何とか笑みを浮かべた。

 ルキウスは震える吐息を零して、足を進める。


「……っ少しだけ、我慢してくれ。直ぐに着くから」

「……(どこに、いく?)」


 そう問うたはずなのに、声にはならなかった。ルキウスが走りだし、揺れる身体にただ身を任せる。


 付いた先は、狩り小屋だった。森の中に建てられた小屋で、狩人なら誰でも使うことが出来る。ルキウスとロジェも、何度もこの小屋に来たことがあった。


 ルキウスはロジェを抱いたまま、暖炉へと火を点ける。彼の息が熱く、そして昂っていることに、ロジェは気付いていた。


「うぃん、こっと……」

「ああ、わかってる……。わかってるから……」


 暖炉の灯りだけが照らす部屋。

 隅には仮眠につかうぼろ布だけが置かれている。

 ルキウスはそこにロジェを横たえ、血と泥で汚れた雨衣へと手を掛けた。


 ぶわりと甘い匂いが、脳まで届く。ロジェはねだるように手を伸ばし、ルキウスの頬を挟み込んだ。

 ルキウスの顔が、まるで痛みを耐えるかのように歪む。頬を流れる雫は、雨じゃなくきっと汗だ。

 綺麗な綺麗な緑の瞳に、ゆらりと朱い火が灯る。それは激しくも美しい、情欲の炎だった。


 気付けばうわ言のように、彼の名を繰り返していた。途端、ルキウスの顔から理性の仮面が剥がれ落ちる。

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