8.


+++++


 一時間ほど仮眠をし、ロジェは文官室へと戻った。


 回復薬のお陰か、少しばかり身体は楽になっている。首をこきこき鳴らしながら机へついたところで、同僚たちの姿が少ない事に気付いた。

 窓の外を見ると、もう夕陽の名残すら無くなっている。恐らく同僚たちは夕飯をとりに出たのだろう。


 腹は減らないが、食べておかないと身体が持たない。今夜もルキウスに呼ばれるかもしれないのだ。

 ロジェは座ったばかりの椅子から立ち上がると、ゆったりとした足取りで文官室を出た。



 この広い屋敷には食堂が3つあり、各部門が食事を取るところは厳密には決まっていない。しかし誰もが職場から近い場所を選ぶため、自ずと集まる顔ぶれは決まってくる。


 ロジェもいつものように、近くの食堂へと向かっていた。

 棟から棟を繋ぐ回廊を通っていると、庭を挟んだ向かいの回廊から何やら緊張した雰囲気が漂ってくる。


 ちらりと視線を移すと、そこには側近を引き連れたルキウスがいた。

 ロジェはぱっと視線を戻し、何も見なかったを通す。向かいの回廊とは距離があるため、素通りしても咎められることはないだろう。


 ロジェと同じ回廊を通る者も、同様な行動をしている。皆して一心に前を見据え、足早に棟へと向かう。

 しかし無情にも、向かいの回廊から声が掛かった。


「シン・アースター。待て」


 声を掛けたのは、ルキウスの側近だ。

 短く刈り上げた青い髪、精悍な顔にはたくさんの傷痕が付いている。近寄りがたい容姿だが、雄々しい眉骨の下にある瞳は意外と穏やかだ。

 ルキウスよりも話が通じる男なのではないかと、ロジェは勝手に推測している。


「殿下がお呼びだ。こちらへ」

「……はーい、はい。行きますよぉ」


 あっちの回廊へ届かぬように、ロジェは小さな小さな声で返事をする。せめてもの抵抗だが、ルキウスにはお見通しかもしれない。

 彼はロジェのこういう生意気で小癪な面を嫌い、ことごとく指摘してくるからだ。


(……昔はそうじゃなかったのにな……って、思い出に浸ってる場合じゃないかぁ……)


 ロジェは回廊から降りて小さな中庭を突っ切り、向かいの回廊へと向かう。そしてルキウスの前まで来ると、姿勢を正して少しだけ腰を折った。


 この屋敷では跪礼は省略することになっている。ロジェがここに来て唯一、ルキウスに拍手を送りたくなった規則だ。跪くことほど、非効率な事はない。

 ロジェが顔を上げると、ルキウスは小さく口を開いた。


「お前、仕事をしているのか?」

「……は?」

「文官としての仕事だ」

「……? はい、閣下。僕は第3科に所属しておりますが……何か不手際が?」

 

 ルキウスはロジェから視線を外さないままだが、相変わらずそこには感情がない。


 仕事をしているのか、と問われれば、ロジェは胸を張ってイエスと言える。

 この上なく真面目に仕事をしている自信があり、文官長もその働きを褒めてくれているからだ。

 これ以上やれと言われれば、夜の相手に指定するのを止めてもらうしか手はない。これ以上睡眠を削れば、身体がもたないからだ。


 ロジェはルキウスの言葉を待ったが、彼はしばらくの間黙り込んだ。何かを思案しているようにも見えるが、表情からはやはり読み取れない。


 ロジェが助けを求めるようルキウスの側近へと視線を移すと、彼は穏やかな瞳をこちらに向けていた。思わず首を傾けると、ルキウスがぽつりと漏らす。


「今夜から明日にかけて、俺は屋敷から離れる。戻るのは明後日だ」

「は……」


 ルキウスは言い放つと、ロジェの返事を聞くこともなく踵を返した。長い脚をすいすい動かし、颯爽と向かいの棟へと消えていく。 

 残されたロジェは、傾けていた首を更に傾けた。すると残っていた側近が、くすりと低い笑い声を零す。


「ご心配なく。殿下はあなたが仕事をしていた事に、驚かれただけです」

「それは、どういう……」

「あなたに随分無理をさせている事は、しっかりと自覚しているのでしょうね」

「……?」

「では、失礼を」


 軽く頭を下げ、側近は去って行った。拍子抜けするほどの事の結末に、ロジェはぽかんと立ち尽くすしかない。

 ルキウスの言葉を反芻しても、やはり真意は汲めなかった。しかし分かったことは、今日と明日は呼び出されることがないという事だ。


「……っっいぃいいいっしゃ!!」


 その場で拳を握りしめ、ロジェは暫しの解放を喜んだ。夜にしっかり寝るなんて、いつぶりだろうか。

 先ほどとは一転、ロジェは軽いステップを踏みながら、元の回廊へと戻ったのである。


 ロジェはそれから二日間、ルキウスの言葉通り呼ばれることは無かった。お陰で仕事が捗り、睡眠時間もいつもより確保できた。

 しかしその次の日には呼びつけられ、ロジェはいつものように執務机で貪られた。地獄の再スタートである。


 そんな日々が続いたある夜。


 いつものようにロジェを組み敷いたルキウスは、一度精を放ったあと、ひとつ大きな溜め息を吐いた。下敷きになっていたロジェの顔に、彼の白銀の髪がはらりと落ちる。

 ロジェは荒い息を吐きながら、驚きのままルキウスの顔を見上げた。いつもなら二度三度と立て続けが当たり前だったからだ。


 ルキウスは緩慢に髪をかき上げると、あっさりとロジェから離れた。そして執務室の端の方へと移動していく。


 ロジェは目を瞬かせながらルキウスの動向を見守ったものの、もう彼が戻って来る気配はなさそうだった。ロジェは腹についた白濁を拭って、ズボンを引き上げる。


 気だるげに周囲を見渡すと、今日は清掃班を入れるほど汚れていないようだ。慌てて出ていく必要がないのは、正直助かる。

 そしてどこからか、疲れたようなルキウスの声が聞こえた。


「落ち着いたら出ていけ。明日は早い」

「……」


 早く終わったとはいえ、身体には重い怠さが残ったままだ。返事の代わりに立ち上がると、ロジェはルキウスの姿を探す。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る