第7話






 温かな春風に包まれる。

 もう季節は、空気に湿度を交えようとしているのに、そんな訳はなかった。

 けれど、身体が包まれて、優しく頭を撫でられて、柔らかくほどけていく。視線を少しずつ上げていくと、目の前には汚れた運動靴があって、ジャージの膝は土についている。大きく骨ばった大きな手のひらは太腿に置かれ、「楠原」と書かれたジャージを泥で汚したあの青年が、眉を下げて僕を見つめていた。


「え、あ…っ」


 まさか、本当に会えるなんて思っていなくて、つい言い淀んでしまう。ほろ、と残った雫が頬を撫でるように落ちていった。それを見て、目の前の彼は眉間の皺をきつくした。


「どこか、痛いですか? 救急車呼びますか?」


 真剣な瞳は僕だけをまっすぐに映して、そうつぶやいた。

 その事実に、胸が震え、また涙が零れてしまう。


「だ、大丈夫ですか? とりあえず、まず医務室に…」


 立ち上がって、どこかへ行こうとする彼の袖を掴む。すぐに僕に方へ向き直った彼は目を見張る。僕は、首を横に振って、震える唇でなんとか伝える。


「ち、がう…、僕、僕…っ」


 必死の僕を見下ろした彼は、もう一度膝をついて、僕と視線を合わせてくれる。それから、眦を垂らして、優しく僕の拙い言葉を待っていてくれた。


「道、迷って…それで…」

「また、迷子になってたんですか?」


 冷えた指先はかすかに震えていたらしい。それを、彼の固い手のひらが包んでくれて、心臓がぎゅ、と窄まる。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、視線を上げると彼はにこりと微笑んでいた。


「どこに行きたかったんですか?」


 顔に熱が集まっていく。乾いた唇を、しっとりと噛む。長い睫毛に涙の残りがつやりときらめいて、彼は指先を小さく跳ねされてから、僕の指先から離れようとした。去ろうとする大切な熱源に僕は慌てて、両手でその手を握る。


「君に、会いに行こうとしたの…っ」


 勢いのまま言葉にしてしまう。彼の大きな黒目がすべて見えるほど見開いて、瞬きを数回した。僕はとんでもないことを口走ってしまったのだと後から冷静になって気づいて、さらに頬が紅潮する。恥ずかしくて、今にも逃げ出したかった。

 けれど、ここで逃げ出しては一生後悔すると思った。

 かさついた彼の指先を、汗ばんだ僕の手のひらがしっかりと力を込めて掴んでいる。こめかみが痛いほど、心臓が高鳴っている。けれど、僕は引きたくなかった。


(やっと、会えた…)


 彼からの返答がなくて、自然と地面に戻っていた目線を上げる。上目で彼を盗み見るようにすると、彼は頬を赤く染めて、優しい顔をさらに緩めていた。

 とくん、と全身がかすかに震えて、身体の末端までじゅわりと体温が滲み出る。


「僕も、依織先輩に会いたかったです」


 可憐で柔らかで、それでいて濃密で溶け落ちてしまいそうな甘い香りが漂う。脳がぐらりと揺れる。

 目の前で、朗らかに囁く彼への思いで胸がはち切れてしまいそうだった。


(名前…)


 覚えていてくれた。

 僕と同じ。

 僕と同じことを、思っていてくれた。


 出会って間もないのに、目の前の誠実な青年の言葉に嘘偽りがないのを感じてしまうのは、僕の幻想だろうか。


「探してくれたんですね…、嬉しい」


 笑みを濃くして、彼は噛み締めるように最後、ぽつりと付け足した。

 照れ隠しのように、彼は頬を手の甲でこすった。どうしてそうなるのかはわからないけれど、土が擦りつく。

 自分よりも一回りも大きい身体の男に、心がうずいてしまう。温かなものが溢れ、身体の隅々へと流れ込んでいく。

 気づいたら、勝手に指先が伸びて、彼の汚れた頬を撫でていた。さらりとした土は、簡単に落ちてしまう。それを少し残念に思いながら、身を引くと、目の前の身体が多いに熱を発していた。

 潤んだ瞳で顔を真っ赤にした彼に釣られて、僕もさらに熱が上がる。

 身体の奥底がうずうずと呻き出す。彰の隣にいる時もそういう違和感はあった。けれど、それとは違う温度感がある。もっと、そうありたいと思ってしまうような、心地よさを感じてしまうような、高揚的なものだった。

 お互い泳いでいた視線が交わると、先に笑ってしまったのは僕だった。

 出会って二回目なのに、なんでこんな気持ちになっているんだろう。

 不思議で、目の前の彼が僕よりも一回りも大きいのに愛おしく思えて、勝手にくすくすと笑ってしまった。

 それにつられてか、彼も肩をすぼめて、小さく笑い出す。


(なんて…)


 なんて、心地よいのだろう。

 名前しか知らない、この青年の隣は、どうして、こんなにも僕すら知らない僕のありのままを見せられるのだろう。

 甘い香りに揺蕩いながら、彼の温かな体温を分けてもらい、胸いっぱいの感情を、なんと言葉にすれば良いのだろう。









 それから、僕は彼の案内に従って、竹藪の中から秘密の植物園にたどり着いた。

 ドアを開けると初めて来たときとはまた違った芳醇な香りがした。む、と湿度の強い部屋なのに、彼が隣にいると全く不快感を得ない。

 鬱蒼と茂る木々の間から、くすんだ白いガーデンチェアとテーブルが現れる。そこに彼は僕を勧め、それに従って腰掛ける。き、と小さく鳴ったチェアが長らくこの場所にいたことがわかると、彼とずっと共にあったのかと思い、心の奥がずんと重くなる。この感情を何というものなのかわからず、胸を擦って首をかしげた。


(僕も、ずっと一緒にいたい)


 ふと心の中に浮かんだ言葉に、息を飲む。


「ハーブティはお好きですか?」


 かちゃ、と目の前にガラスのポットとカップを持ってくる。

 優しい顔で僕に尋ねた彼に急いで気を戻す。うなずくと、良かったと彼は朗らかに言った。彼の温かな笑顔を見ているだけで、喉の奥がしめつけられるような苦しさがあるのに、全身がほわほわと浮かんでいるような奇妙な感覚に陥る。それは、とても心地の良いものなのだ。


「ここで栽培したカモミールです」


 ポットの中でふんわりと可憐な花が琥珀の海に浮かんでいた。きれいな丸い爪の指先が、意外にも器用にカップへとティーを注ぐ。伏せた睫毛は長く、優しい草食動物のようだと見惚れてしまう。そんなことをしているから、まっすぐな黒目にぱちりと視線が合ってしまう。頬が熱くなって急いでそらす。


「依織先輩の口にあえば、嬉しいです」

「あ、ありがとう…」


 目の前にソーサーと共にことりと置かれるカップは、柔らかな湯気をたたせ、ほのかに甘やかな香りを立たせている。


「いい匂い…」


 目の前のチェアに彼が座る。瞳にかかりそうな流さの前髪が、はらりと動く。たったそれだけのことなのに、妙に胸のあたりが苦しい。カップにつけた彼の唇がやけに色味を帯びているように見えてしまい、急いで視線をはずしてカップの中身を口づける。


「あつっ!」

「大丈夫ですか?!」


 慌てたものだから、煎れたてのハーブティーの温度に火傷をしてしまう。唇を押さえていると、彼は眉根を寄せて心配そうに身を乗り出していた。

 情けなくて、口元を押さえながら笑うしかなかった。


「ご、ごめんね、大丈夫だから…」


 ちょっと、ぼーっとしちゃって…、と付け加えると、未だに僕の顔色をうかがうような顔つきのまま、もとの座席に腰掛けた。気恥ずかしくて、急いで違う話題を見つける。


「そ、そういえば、なんでここにいるの?」


 ぐるりと視線を回す。高い天井に向かって、葉の厚い大きな木々がのびのびと育っている。


「もともと植物が好きで…、土いじりが好きだって話をしたら、ここの管理をまかせてくれた先生がいらっしゃったんです」


 穏やかな瞳を細めて話す姿から、その先生へのまっすぐな感謝が見て取れた。


「この前のいちご、とってもおいしかった…」


 豊かな香りのするハーブティーも彼が愛情込めてつくったものなのだろう。彼の指先が丁寧にこの花や葉を扱ったのかと思うと、口にした液体がやけに甘く感じられた。

 肩の力がふ、と抜けて、自然と彼を見上げると、垂れた眦をさらに垂れさせて、甘く微笑んでいた。


「そう言ってもらえると、とっても嬉しいです」


 とろりと身体の中に何かが流れ込んでくる。一気に浮遊感に見舞われて、彼の笑顔で頭がいっぱいになる。


「ぼ、僕も、やりたい」


 咄嗟に口から出た言葉に、彼は首をかしげて続きを待ってくれていた。


「僕も、土いじり、したい」


 だめ、かな。


 上目で小さく首を傾いで彼を見つめると、きゅ、と唇を引き結んでぱちぱちと瞬きを繰り返したあと、頬を染めながら彼はうなずいた。


「僕で良ければ、一緒にやりましょう」


 どくん、と大きく心臓が高鳴って、全身に温かい血液が巡り、視界に移る彼が、朝焼けの水面の反射のようにきらきらと輝いて、まぶしく見える。そわそわとする高揚感に、身体が勝手に弛緩して、ふふ、とだらしなく頬が緩み切って笑ってしまった。

 その僕を見て、彼が汗をにじませて、顔を真っ赤にしていた理由はわからなかった。 



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