第8話
その日から、僕の毎日の中に、透という存在が明確になっていく。
帰りのホームルームが終わると、いつも通りに彰と教室を出る。それから、図書室へ行くふりをして、僕は秘密基地へと向かう。
じっとりと気温が上がってきた。僕らの秘密基地への道しるべを、彼がつけてくれた。
竹藪を見つけると、ピンクの糸が巻かれた竹がある。それを順に追っていくと、僕たちの場所へとたどり着く。その糸も、所詮糸であり、よく気にしなければたどり着けないのだ。僕が慣れるまでの目印。いつかは、これがなくても、僕はたどり着けるようになるのだろう。
笹の葉先が肌をくすぐる。そのむず痒さも、はやる気持ちもあり、いつも気づくと、息が切れてあのドアの前に立っているのだ。
乱れた前髪を簡単に手櫛で直して、ひと呼吸おいてからドアを開ける。む、と強い湿度が肌を撫でるが、これすらも不快だとは思わなくなっていた。恩シーズンにご機嫌な木々をかき分けると、彼の花園が現れる。タオルを首に巻いて、いつもの藍色のジャージ姿の彼が大きな身体を小さくさせてしゃがみこんでいた。
その背中を見つけただけで、口角が勝手にあがってしまう。
彼がそこにいて、心が躍り、身体が軽くなる。
そっと足音を消して忍び寄って、彼の真後ろに立つ。
「わっ!」
「ぅわあ!」
小さく深呼吸をしてから、広い背中を軽く指先で叩く。彼は大きく肩を跳ねさせて、バランスを崩して土の上にこけてしまった。慌てて僕も膝をついて、彼の顔をうかがう。
「ごめん、大丈夫?」
「だ、大丈夫です」
顔を上げた彼の身体の下には、小さな苗があって、それを囲うように腕を立てていた。頬に土をつけた彼は、眉を下げて笑っていた。
「ごめんごめん、まさかそんなに驚くとは…」
彼が身体を起す間に、僕はポケットからハンカチを取り出して、彼の頬についた土を払った。
「ハンカチが汚れちゃいますよ」
「僕のせいだから」
ハンカチで拭う僕の手を彼の大きな手のひらが止めようとしたが、それを無視して、僕は彼の顔についた土を拭う。尖った顎先、左の頬についた土が落ち、他についている場所がないか確認をする。所在なさげに目を伏せている彼の睫毛は豊かで長い。長い前髪がそれを隠してしまっている。ふと気になって、その前髪を指先で横に流す。
ふさりと音を立てて彼の睫毛が持ち上がり、日差しをきらりと受けて、透き通った瞳が僕を見上げた。
「先輩?」
僕の手の中にある顔は、整ったもので、この瞳に見つめられると心臓を鷲掴みにされてしまう。身体に熱が溜まっていくと、どこからか温かな香りの中に濃密な果実の甘みを孕んだものが漂ってくる。
彼の瞳がまっすぐに、僕を心配する色を見せてきたところで、急いで視線を反らして、手を離した。
「どうかしましたか?」
「い、いや、ごめん…」
僕は、彼に出会うまで知らなかった。
自分がこういうつまらないいたずらを仕掛けてしまうような人間だということ。
その瞬間が、楽しくてわくわくして、気づいたら笑顔になってしまうこと。
それから、彼を見ると、熱が湧いてきて、心臓が痛いのに心地よくて、頭がじんと滲むこと。
こんな感情、知らなかった。
言葉を詰まらせている僕をしばらく観察してから、彼はすっくと立ちあがって、僕の手を引いた。たくましい手のひらに握りしめられて、さらに身体の末端に汗がじわりと滲む。それに気をとられていると、僕を立たせた彼は、僕の足元にしゃがみこんだ。それから、軍手の比較的汚れていない部分をつまんで、土で汚れた僕の膝をはたいてくれた。
「せっかくの制服が台無しですよ」
見下げる彼の肩幅は自分のものとは全く異なる、男の身体だった。ぎゅう、と身体の奥が締め付けられて、唇を噛みしめる。
「全部は落ちないけど…」
大丈夫ですかね? と顔をあげた彼は、柔らかく微笑んでいた。
僕がいたずらをしたのに、僕のハンカチを心配する、彼の柔らかさがとても心地よい。
たかが服なのに、僕のものを大切にしてくれる彼の優しさがとても温かい。
彼に大事にされると、自分のことを好きになれる気がした。
汚れないように、と制服の上からジャージを羽織る。湿度の高さに汗をかいていると、それに気づいた彼が、ドームの窓を開けてくれた。
天井は高い円錐になっていて、カーテンレールが引かれるように、彼が車輪を回すと屋根が開けていく。風が一気に流れ込んでくる。木々の葉も揺れ、同じように心地よさを共有しているのかと思うと、頬が緩んだ。
「すっかり依織先輩の方が上手になっちゃいましたね」
振り向くと首を伸ばした彼が僕の手の元を覗き込んでいた。目が合うと、にこりと微笑まれて、僕は勝手にどきまぎしています。
「そ、んなことないよ。ただ、言われた通りにやってるだけ…」
四角い小さい連結されたポットに、種を数粒まくだけ。たったそれだけのことなのに、彼は首を横に振る。
「そんなことありません。この前まいてもらったオクラはもう発芽しました!」
去年の倍の速さです! と彼は目を輝かせながらガッツポーズをとっていた。
去年より気候が合うだけなのではないか。と冷静に思っている自分もいるけれど、それよりも、彼が手放しに無邪気に、心から僕を褒めてくれている。その事実が、素直に僕の心にまっすぐと届く。彼の言葉は、僕の心に、すんなりと入るのだ。
「透に言われると、嬉しい」
指先にトマトの種を摘まんで、ポットにぱらりと落としながら、独り言をつぶやく。
風に乗って、甘い香りが漂い、視線をあげる。
「依織先輩に言われると、くすぐったいな」
長い前髪が風にはけられて、優しい眦をさらに下げて、頬を染め、桃色の唇でゆったりと動かして彼が囁いた。
(自分の一言で、こんなに嬉しそうに微笑んでくれる人、今まで出会ったことがない…)
その一言だって、彼が与えてくれたから、こぼれたものなのだ。
(世界中探しても、こんな優しくて、穏やかで、温かい人はいないだろうな…)
気づけば、二人で顔を合わせて、くすくすと笑ってしまう。
何が楽しいのかわからない。
けれど、彼の隣にいると、楽しいのだ。
(この時間が、ずっと続けばいいのに)
僕の未来に、彼がいてほしいと強く願う。
けれど、それは、僕が決められることではないのだ。
ポケットの中で小さく振動したスマートフォンに気づいてしまう。滅多に着信を知らせないそれに、嫌々ながら手をつけた。ディスプレイを覗いて、僕は目を見開いた。
「どうかしました?」
僕の様子に敏感な彼は、すぐに気づいて心配そうに声をかけてくれた。は、と意識を戻し、笑顔を貼り付けた。
「なんでもない、大丈夫」
胸元にスマートフォンを握りしめて、彼にそう伝えるが、彼は余計に眉間の皺を濃くしてしまった。何か言いたそうに唇を開いたり、引き結んだりをしていたが、僕がそれを言われる前に、スマートフォンの返信を打つから、と言って、ドームから出ていく。
笹がこすれる音の中で、僕は返信を打つ。
『早く抜けられそう。一緒に帰れる?』
そのメッセージは彰からのものだった。
こめかみが鈍く痛む。かすかに震える指先で言葉を募る。
『今日は寮で勉強しようと思って帰っちゃった、ごめんね』
どくん、どくん。大きく心音が頭を揺らす。
生唾を飲み干す音がやけに響く。すると、しゅぽ、と軽快な音と共に、泣いている犬のスタンプが送られてきた。
その瞬間、一気に身体の力が抜ける。思わず、膝から崩れてしまいそうになったのを、ふら、と出た一歩で踏みとどまる。
急に肩に何かが触れて、勢いよく振り向くと目を丸くした彼がいた。
「あ、ごめ…」
笑顔をつくる間もなく、彼の一瞬の悲しそうな顔が見えてしまい、指先が冷える。
「やっぱり、何かありましたか?」
どこまで、僕の心配だけをしてくれている彼に、身体の奥底を握りしめられたようだった。
(本当のことを話した方が良い、のかな…)
でも。
きっと、優しい彼だ。
自分のことよりも、友達を大切にしてくださいと平気な顔して笑って言われてしまう。そう言われたら、僕はなんて返答すればいいのかわからなかった。
(何より…)
僕は、僕の意思は、ここにいたいと、はっきりと感じている。
(彼のそばにいたい)
「ううん、友達から。明日、一緒にお昼食べようねっていう連絡」
嘘、ではない。現に、泣いている犬のスタンプのあとに、明日は一緒に食堂いこ! とメッセージが入っていた。だから、口角をあげて彼に伝えられた。
それでも、彼は、まっすぐに僕をしばらくの間見つめた。
「何かあれば、教えてください。僕じゃ、役に立たないと思いますが…」
「そんなことない!」
へらり、と頬を掻きながら笑った彼の腕に手をかけて、前のめりに叫んでしまう。
彼は、時節、自分を下げた物言いをする。
それが、僕にとっては、すごく、悲しかった。
「僕、透と一緒にいるだけで、元気になれるよ?」
それってすごいことじゃないのかな。
「依織先輩…」
彼の瞳がちらりと光る。その後に、ほんのりと頬が染まって、甘い眦が垂れる。
「そんな嬉しいこと、はじめて言ってもらいました」
ふふ、と彼は微笑みながら、僕の頭を撫でた。いきなりのことに、どきり、と身体が跳ねる。彼の長い指先には、笹の葉がつかまれていた。
彼の一挙手一投足に心を掴まれている自分が、なんだかおかしくて、僕も彼と同じように穏やかに笑えた。
「僕がはじめて?」
「はい、依織先輩がはじめてです」
風に乗って、僕の好きな香りがする。
穏やかな春の日の草原に抱きしめられるような心地よい香り。
彼に寄り添って、ドームに向き直る。
「じゃあ、特別?」
彼の二の腕にジャージの上から触れる。意外とそこは硬く、太かった。背の高い彼を僕は上目で見上げるしかない。瞳が交わると、彼は少し唇を固くして急いで前に向き直った。
「なんだか、その聞き方は…ずるいです」
なぜか声色が低くなった彼に、小首をかしげる。彼の耳先が赤いことも、理由がわからない。
「透? どうしたの?」
「なんでもありませんっ」
長い脚で大股で歩かれてしまうと、僕は小走りになるしかなかった。
「透? ねえ、わっ!」
「依織先輩! 大丈夫ですか?」
足がもつれてこけそうになってしまった。我ながらなんと鈍くさい…と思うが、そっぽ向いていた彼は、僕にすぐに気づいて、身を翻して両手を差し伸べてくれた。彼の両腕に支えられながら顔をあげると、すぐそこに、さっきまで明後日の方を向いていた彼の顔があって、つい、笑ってしまった。
どこまでも優しい彼に心が満たされていく。
彼も、一緒になって笑ってくれて、そんな時間がすごく愛おしくて、大切にしたくて、たまらなくなる。
彼が隣にいたら、どんなことも彼で頭がいっぱいになってしまう。
だから、僕は、大切な彰になんとない嘘をついてしまった後ろめたさを忘れてしまっていた。
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