第6話
「転入生が来るらしくてさ…」
はあ、と大きな溜め息をついた、頭一つ分高いところにある小さくて端正な顔を見上げる。彰は眉間の皺を揉んでいた。
昼休みの穏やかな風に吹かれながら、僕はりんごジュースのストローを唇から離した。
「5月なのに?」
季節は新緑美しく、青い風の匂いが吹き抜けるものであり、出会いの季節は過ぎていた。
うなずいて、僕の耳元に顔を寄せた。
「ちょっと訳ありらしくてさ…」
彰の甘やかな香りが鼻腔をくすぐり、肩が小さく揺れてしまった。
周期通りであれば、発情期が近い。だからか、最近やけに、彰のフェロモンの香りに身体が敏感になっている気がする。
「へ、へえ…! 生徒会も忙しい時期なのに」
大変だね、と笑顔を貼り付けながら、少しだけ彰から離れる。それを鋭い彰は気づいているのかわからないけれど、少し目を細めてから、顔を離した。それだけでも、ほ、と緊張した身体が緩む。それがバレないように、急いで顔を正面の大きなカエデに向けて、パックジュースに口をつける。
「ほんと! ボク、もう会長にこき使われてへろへろ~! 依織、なぐさめて?」
調子よく、いつもの明るい声色に胸を撫でおろしていたが、急に肩を引き寄せられて、温かなものに包まれて、呼吸が止まった。思わず、ストローを噛んでしまう。
「依織…」
耳元で低くかすれた、男の声がした。
目を見開きながら、ゆっくりと見上げると瞳を鋭く光らせた甘い顔立ちのアルファがいた。
最近、彰がやけに僕に見せる顔だった。
今まで、こんなことなかった。彰と出会ってから、もう十五年ほどが経つ。物心ついた頃には、彰は傍にいた。その彰の表情はいつだって、友達として、朗らかで温かく明るいものだった。隣にいると、いつも笑顔になれて、元気をもらえた。嫌なことがあっても、悩んでいても、彰が僕の心をほぐしてくれる。
けれど、最近の彰は違う。
いつからだろうか。
一度目にしたこの顔つきは、よく見るものとなってしまった。
(捕食者の眼だ…)
オメガとしての本能が、背中を辿って冷や汗をにじませる。
小さい頃に元気づけてくれた手は、もう僕のものよりも大きく、骨ばっていて、あっという間に抱き寄せてしまう。僕を包む腕は、長く、たくましいものだった。まるで、必要とされているような、逃がさないとでも言っているような強さに身体の中は目の前のアルファに求められていると勘違いし、悦びさえ感じているように思えた。少し前の僕なら、整った顔立ちと落ち着く体温にうっとりとしてしまったことだろう。
しかし、僕の理性が、彰と並ぶオメガを想起させる。
思い出してしまった現実からそむくように、彰から急いで視線を落とす。
(怖い…)
こめかみが大きく脈打っている。握りしめた指先がかすかに震えている。
「依織…」
耳元で、名前をつぶやかれる。吐息が頬をかすめて、肩がひくついてしまう。
彰は静かに腕をほどき、立ち上がった。
「じゃあ、生徒会室寄らないといけないから、先行くね」
「え、あ…」
手に持っていたパックジュースを彰が奪い去る。立ち上がった彰の顔を見上げると、赤い舌がちらりと見えて、僕が噛んでしまったストローを口にした。へこんだ痕に軽く当てられた犬歯は月明かりのように色白で、きらりと光っていた。それから、ゆるやかに微笑んで、いつもの彰の、僕が大好きな彰の顔つきだった。
こちらに背を向けて、校舎へと長い脚で一歩ずつ進んでいく。
「が、がんばってね!」
その優しい笑みにつられるように、咄嗟に声が出た。
広い背中と、セミロングの透き通る淡い髪が揺れ、彰が振り返る。大きく手を振りながら、器用に後ろ向きで歩く。その先に、小柄な下級生が二人いて、ぶつかりそうになるのを、紳士的に大丈夫?と声をかけていた。ぱっ、と顔が赤くなる二人を見て、ひとり頷く。
(そう、そうだよ…)
彰は、誰かひとりのものじゃない。
みんなが、彰を見れば振り返り、瞳をきらきらとさせて、一目見てもらおうと頑張る。
(それで、いい)
それが、みんなが憧れる、みんなの彰なのだ。
たまたま、家の付き合いで小さい頃が、僕が一緒にいただけ。それだけ。
さっきの下級生たちは、僕の目の前を通り過ぎる時に、うっとりと彰の話をしていた。
彰が昇降口でキスをしていたオメガも、庇護欲を掻き立てられる可愛い人だった。
彰の横には、そういう人たちがふさわしい。
何度も、自分の胸にそう言い聞かせるのに、なぜか、胸の奥がひりひりと焼けるような感覚がする。そっと自分の胸元を撫でる。
この痛みがなぜなのかは、未熟な僕はわからなかった。
ポケットに入れたまま存在を忘れていたスマホが震えた。
静かな図書室の中で、頭がぼんやりとして進まない問題集とにらめっこしてから、しばらくが経っていた。
後悔に、小さく溜め息をついてから、スマートフォンを立ち上げる。メッセージの着信だった。僕のメッセージを送るのは、家族か彰くらいだった。
その後者からの連絡だった。
『生徒会の仕事が長引きそうだから、先に帰ってって』
そこから、流行りのキャラクターの泣いているスタンプが連打される。その度に、バイブレーションが小さく鳴って、図書室に響いているようだった。
彰がプレゼントしてくれた、同じキャラクターの、がんばれ! と書かれたスタンプを一つ送って、スマートフォンを閉じる。
まだ震えていたが、そのままカバンにしまう。もう一度、問題集と向き合うが、頭の中はひっきりなしに、何か大きな不安に迫られているようで、落ち着かなかった。
(こんなことしたって、何の意味もない…)
勉強なんて、来年の僕には何の必要も、意味も、価値もない。
ただ、普通の高校生たちと同じことをしていたいという気持ちで、取り組んでいるのだ。世界の普通とつながっていたい。それが、何も持たない僕の、唯一の希望のようなものなのだ。
けれど、その無駄なあがきが、今日はとてつもなく自分の首をしめているらしかった。
(だめだ…)
カバンの小さいポケットから、錠剤ケースを取り出す。水筒の水と共に、小さい白い粒を身体に流し込む。それは、発情を抑える薬だった。
発情期前は、ナイーブになることが多くなってきた。医師からホルモンを落ち着かせる効果があると聞いてから、発情期前の頭痛や倦怠感、強い不安感があるときは、服用するようにしていた。しかし、それも、気休めでしかないのは、最近、薄々は感じていた。それでも、僕には、そうするしか方法がなかった。
何かを発散させる方法も、一緒に笑い合える友達も、僕には思いつかなかったからだ。唯一思い浮かぶ顔は、彰だったのだ。
しかし、それすらも、今は自分の中の大きな黒い靄を刺激する存在でしかない。
その奥から、うっすらと光が見えてきて、ふと頭に浮かんだのは、あの植物園だった。
ぱ、と顔を上げて、ペンケースのチャックもしめずに、乱雑にノートと共にカバンに放り込んだ。
(彼に、会いたい)
どうやってたどり着いたのか。
僕の中で、あの日の記憶は曖昧だった。
とにかく、上履きのまま、この前の道を走る。
けれど、歩けども歩けども、竹やぶしかなくて、彼のいる、秘密の植物園にはたどり着けない。むしろ、ずっと同じところを歩いているようだった。
(何やってるんだろう…)
じゃり、と足元の小砂を踏みしめたローファーの先が汚れていた。立ち止まって自分を振り返ると、とても愚かに思えた。
たまたま出会った青年の優しさに付け入ろうとして、寂しい自分をつなぎとめようとしている。
身勝手で、とてつもなく可哀そうだった。
無意識に握りしめていたスクールバックの持ち手がぐしゃりと歪んで、荷物を背負い直すと、乱雑に放り込んだペンケースが、中でがちゃがちゃと音を鳴らした。
(バカみたいだ…)
眉間が痛んで、その場にしゃがみこんでしまう。
昔から隣にいた、ただの友達とは形容し難いほど大切な人に恋人ができて、嫉妬してしまう小さい自分だから、心の汚さを見透かされて、関係性が崩れてしまった。自業自得だ。
だから、助けを求めたかった。
前のような、穏やかで、温かな心を取り戻したかった。
そんな卑しい自分だから、誰も相手はしてくれないのだ。当たり前なことだ。
(だけど、もう、最後だから…)
来年から、僕は僕の意思で、僕を決められる存在ではなくなってしまう。
だから、最後の、今年くらいは、穏やかに、しあわせに過ごしたかった。
(それが、わがままなのだろうか…)
ローファーの先に、大きな雨粒が落ちた。ぼたぼたと落ちる雫は、僕の瞳から生まれたものだった。
(泣くな、泣くな)
自分のせいなんだから、泣くなんて愚かだ。
乱暴に腕で拭うけれど、余計にみじめに感じられて、次から次へと溢れていく。次第に、嗚咽も出始めて、唇をきつく噛み締める。
(もう、こんな自分じゃ、誰も好きになんかなってくれない)
「また、泣いてるんですか?」
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