第30話 Color me orange ③



 真夜中近くに戻ってきたエトもタカヒコも、ひどく憔悴しきっていた。


 タカヒコは日本行きの一番早い便のチケットを買うと、ヒカルを強引に帰国させた。


 彼女がおとなしく帰国することに同意したのは、エトがタカヒコの帰国の時に一緒に戻ってくることを約束させたからだった。



 その週の金曜日、二人はパリ経由で関西国際空港へ向かった。



「本当は理不尽だって、御園もちゃんとわかってるんだ。でも、自分でもどうしようもないんだろうな。大丈夫、僕がついている限り、ちゃんとあいつにあきらめさせるから」


 タカヒコはそう言うと、先に行っていると言ってゲートに入って行った。



 私とエトは何も話さずにぼんやりとベンチに座っていた。




 喧騒。



 行き交う人々。


 嬉しそうな人、忙しそうな人、楽しそうな人、不機嫌そうな人。


 いろいろな人種の、いろいろな国籍の人々の人生が交差する。



 みんなそれぞれに、誰かにとってはいい人で、悪い人で、大切な人で、すれ違うだけの人で。出会いたい人で、出会いたくない人で。



 私たちは空港ここで出会った。


 そして今、一緒に並んで座っている。


 離れがたくて、名残惜しくて。




 人間はどんなに深く傷ついても絶望しても、いつまでもそのままではいない。


 また傷つくかもしれないのに、また始めてしまえるのだ。


 傷の痛みの記憶はずっと持ち続けてはいても、痛みそのものは忘れて。





「いつか」


 私はエトのほうを見ずに、膝の上の自分の両手を見つめたまま言った。エトが私のほうを見た気配を感じながら。


「戻ってきたら一緒に、ヤンセンさんのバラ園にあのバラをもらいに行こうよ」


 花市場のバラの展覧会で偶然にもらった新種の淡いピンクのバラ。


Je bent liefユベントリーフ”……「きみは優しい」という名前のバラ。


 エトを見上げて口元に穏やかな笑みを浮かべる。



 彼は一瞬、少し驚いたように茶色い水晶のような瞳を見開いた。そして私が花市場に一緒に行った時にもらったバラのことを言っているとわかり、安堵の笑みに目を細めて小さくうなずいた。


「いいね。そうしようか」


 私も同じようにうなずいた。





「エリカ、元気そうね」


 妹の杏奈はPCの画面の中で手を振りにっこりと笑んだ。


「あなたもね、アンちゃん」


 私もおだやかに微笑み返した。


「今はそっち、夜だっけ?」


「うん。夜の九時半」


「こっちは午後三時半」


「大学はどう? 寮は?」


「うん、去年下見に来てるからね。今のところ問題なしよ」


 彼女はボストンにいる。


「今度遊びに行くね」


「うん。あぁ、大西洋のあちらとこちらの姉妹」


「はは。そっちから来るほうが時間かかるって知ってた?」


「そうなの?じゃあ、アンちゃんが来て」


「いやいや、行ったら戻らないといけないから、結局同じじゃない?」


 そして私たちはくすくすと笑い合う。



「うん。エリカ、すごく表情が明るくなったね」


「そう?」


「心配してたけど、杞憂だったみたいだね。竣も安心したって言ってた」


「おにいは来月こっちに来るって言ってたっけ?」


「うん。だから私もそのころ行くよ」


「おじいちゃんもおばあちゃんも喜ぶわ」


「パーティしよ」


「なんの?」


「何だっていいじゃない! あ、おじいちゃんの誕生祝い?」


「ああ、そうだね。そうしよう」




 他愛もない会話をさんざん楽しんだあと、妹はふと神妙な表情で言った。


「ねぇ、おねえ」


「やだ、珍しい。どうしたの?」


 彼女が私を姉と呼ぶなんて。兄のことも私のことも、いつもは呼び捨てなのに。



「お父さんとお母さんはもちろんだけど。私も峻も、いつだってエリカの幸せを願ってるよ」


 彼女は、この五年間の私を見てきた。誰とも知り合わず、外に出ることもせず、毎日をただ淡々と生きる人間不信の私を。


 家族は、何も言わなかった。でも心配してくれていたことは気づいていた。


 まだ十代だった妹にまで心配をかけていたことは、申し訳なく思っていたけれど。



「……ありがとう」


 ごめんね、というのはちょっと違うと思ったから。


 私はたったひとりの妹に、穏やかな気持ちでそう伝えた。



















 

















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