第29話 Color me orange ②
「イザークを返してください」
彼の結婚相手は、水路に面した観光客でいっぱいのカフェで私を睨みながら言った。
彼女は悲しいのか、それとも怒っているのか。でもそんな日も、フリルがいっぱいついた服を着ているのね。私はそんなことをぼんやりと考えた。
「私は一切関係ありません」
私の言葉のせいで、彼女の瞳に怒りの炎が宿る。
「彼はどこなの⁉」
彼女の荒げた声に周りの人々がこちらを見る。
どうかしましたかと店員が訊ねてきたので、なんでもありませんと答える。
ぎゅっと両手をテーブルの上で握りしめて、乱れる感情を抑えた。そして何の抑揚もなく私は彼女に言った。
「私は彼には二度と会いたくないの。どこに行ったかなんて知らないし、知りたくもない」
「嘘つかないで返してよぉぉぉ!」
自分の要求が通らなかった時の子供みたいに、本当に小さな子供みたいに彼女はテーブルに泣き伏した。
いい加減にしてほしい。私を巻き込むのはやめてほしい。
手を付けていなかったけれど、私は自分のコーヒーの代金をテーブルに置いて席を立った。
まだわめいている彼女を一人置いて、さっさとカフェを出た。
ぞっとした。
私はただの学生で、婚約者がいることを秘密にして私と付き合っていた人が私のせいで結婚をやめた。そのことに関して、私には何の責任もないはずだ。
自分が怖気づいて逃げ出しておきながら、まるで私にそそのかされたかのようににおわせておくなんて。
その夜から三日間、私は高熱を出して寝込んでしまった。
どうして、私だったんだろう。
どうして私があの女性に、見ず知らずのあのひとに、あんなふうに攻められ、恨まれなければいけなかったのだろう?
どうしてそんな目に遭わなければいけなかったの?
あとでレイナから聞いて知った。彼は自分の「気の迷い」を私にそそのかされたせいにしたらしい。
結婚式の前日、私からの連絡で一緒に逃げようと言われたと彼女に言い訳したのだ。
だから彼女は人づてに私のことを聞きだして会いに来た。
そして私は彼女に深く恨まれた。
「悪い女」にだまされたイザークは一時の気の迷いで結婚式を投げ出したが、結局は結婚相手に許しを請うて彼女と一緒に日本へ行ったという。
私は人間不信に陥って、ひどく落ち込んだ。
ご飯も食べられず、人と会うことを避けてふさぎ込んでいった。
私の知らないところで、私の人格が否定され、改ざんされて広まった。
どうしようもない怒りと情けなさをどうしていいのかわからずに苦しんだ。
体調を崩すようになり大学にもまともに行けなくなったとき、精神科の医者の勧めで一時的に帰国することにした。
好きになった人にだまされたなんて世間ではよくあるだろうし、私なんかよりもっとひどい目に遭った人もたくさんいるだろう。
私には、勝手に悪者にされたことの衝撃のほうが何よりも苦しかった。
日本に帰ってからも、たびたび最後の会話を思い出した。最初の2年ほどはただ腹立たしくて悲しくて悔しくて、イザークの自分勝手さを恨んでいた。
でもそのうちに、少しずつ考えが変わって行った。
私が結婚をやめてほしいと言えばやめると彼は言った。彼はずるいと思っていたけれど、それなら私はどうだったろうか。
やめてほしいと思うほど、彼のことが好きではなかったと思う。
やめてもらった後のことなんて、何も想像できなかった。無理矢理にでも想像すると、嫌な未来しか思い浮かばなかった。
彼は私にとって大切でも重要でもなくて、ほんのひととき、一緒に過ごしたに過ぎない、それ以上でもそれ以下でもない人だった。
そう思えるようになったとき、レヴィから声を掛けられた。
「戻ってきて、ホテルを手伝ってよ」
合縁奇縁。
今私は、ここにいる。
そして、2か月前に日本を発つときに決心したことを実践しようとしている。
前を向いていこう。
新しいことを始めるのは不安だけれど、同時に期待もある。
前を向いたときに視界に入っていたのは、あのひと。
灰色がかった、透き通った茶色い水晶のような優しい瞳。
時折、すべてをあきらめたような悲しそうな笑みを浮かべる優しいひと。
その悲しみの原因が分かった今。
私は……
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