第28話 Color me orange ①



「きみといると、不思議なくらい安心する」


 エトは左手で、私の右手をそっと包み込んで目を閉じた。


 長いまつ毛に見とれていると、彼がかすかに吐息した。


「だからこそ、俺は怖いんだ。今のこの信じられなくらい心地いい関係が変わってしまうかもしれないと思うと。それに俺のせいで、きみが悲しい思いをするかもしれないと思うと」


 心臓からすべての血が引いてしまったかのように、私は動けなくなる。


「自分はいくら傷ついても平気だと思ってた。でもきみが傷つくのかもしれないのは、考えるだけでも嫌だ」



 彼は私の前にひざまずいて私を見上げた。


「今から、ヒカルととりあえず話さないといけないよね。そのあとに、きみともいろいろと話したい」


 灰色がかった薄い茶色の瞳は、まっすぐに私を見上げていた。


 そこには悲しみよりも不安がゆらゆらと揺れていた。



 私は黙ってうなずいた。


 そしてエトは雨の中、二人のもとへ出かけて行った。





         ✣✣­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–✣✣





「あいつ、本当に頭おかしいよ!」


 レイナが苛つきながらソファに身を投げ出した。


「あいつって?」


 私の問いにレイナは彼女の飼っている黒いロングコートチワワみたいにかんかんになった。


「イザークだよ! 婚約者にねだられて、こっちでも式を上げてから日本に行くって、みんなにパーティの招待状を配ってて、その上この私にも渡して来て! エリカにも渡してほしいって!」


「もちろん、私は行かないけど。あなたは行ってもいいよ」


「行くわけないでしょ! でもモデル仲間には、日本での仕事のコネができるからって誘ってるらしいよ。でもそれで誰が行くっていうのよ?」



 いよいよ数週間後には日本に発つらしいイザークは、図書館の前で最後に会ってからも度々電話してきたりメッセージを送ってきたりしていた。私はそれらすべてを無視していた。


 その一方で、彼は今度は役所での手続きを始めたらしい。そうして結婚の準備を進めていきながらも連絡をしてくるのは、何かとても言いたいことがあるのだろう。


 パーティの招待状を私に送って来る意図もつかめなかった。


 でも、私にとってはもうどうでもよかった。言い訳をされようが謝られようが、一切どうでもよかった。


 ただ、彼とはもう、関わりたくなかっただけ。




 小雪がちらつくある夜、うっかり知らない番号に出てしまったらイザークだった。


 すぐに切ろうとしたところ、電話の向こうで懇願された。


「ほんの少しでいいから。お願いだから切らないでほしい」


 そんなことを言われても、私には彼の話を聞いてあげる義務はない。でももしも切ったら家に来るというので、仕方なく応じた。


「エリカ、もうずっとよく眠れないんだ。きみに会いたくて何も手に着かなくて」



 私はふ、と冷笑した。


「明日結婚式だよね? そのまま日本に行くって聞いたけど?」


「そうだけど。このままじゃいけない気がして。ねえ、もし、もしも、きみがやめろって言うなら、明日は俺は……」


 腹が立つと言うより、呆れてしまった。


 私は淡々と言った。



「このままでいいでしょ。自分で選んだんだから。あなたはあなたの思ったようにいけばいい。あなたと私はもう、何の関係もないよ」


「エリカ……」


「私には関係ないの。だから私に何も訊かないで」


「でも、今ならまだ間に合うんだ」


「何が間に合うのよ。お願いだから、どこへでも勝手に行って二度と私のことは思い出さないで。私の電話番号も、私の存在自体も忘れちゃってよ」


「できない。忘れられない」


「できなくても私には関係ないってば。お願いだから、もう私の人生に係らないで」




 まだ何かを言いかけていたけれど、私は通話を終えてスマホの電源をオフにした。





 でもそのあとも、イザークはとても卑怯だった。



 結婚式の朝、彼は誰にも何も言わずにいなくなった。



 私にはそんなことを知るすべはなかったのだけれど…


 三日後、ある女性が私を訪ねてきて知った。

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