第19話 Je bent lief①



「は—―……」


 絶句。


 言葉を失うとは、まさにそのこと。


「ここの屋根は、世界で2番目に大きいんだって」


 エトは口の両端をあげてそう言った。



 アールスメールの花市場。


 百万平方メートルの広大な屋根の下には、世界最大の花の卸売り市場が広がっている。



 昨夜のこと。


 「市場でバラの展示会がひらかれているんだ」


 夕食の席でエトがそう言うと、レヴィがぱん、と手のひらを合わせて大きな目をさらに大きく見開いて嬉しそうに言った。


「エリカ、ちょうどいいね。一緒に行って見てきなよ。うちのロビーに飾るバラ、買ってきて」


「ああ、それなら別のクライアントの分の買い付けの手伝いしてくれる? 日雇いの賃金払うから」


 エトが嬉しそうに言った。


「そうね。世界一の花市場は圧巻よ。前から見たいって言ってたじゃない」


 ゾエも勧めてくれた。




 そういうことで、私はエトと花市場にいる。


 大学に通っていたころは機会がなくて一度も来たことがなかったから、これが初めてだった。


 話には聞いていたけれど、本当に呆れるほど広大な市場。


 プラスティックのコンテナにぎっしりと入れられた色とりどりのバラやチューリップが、集合住宅みたいに積み上げられている。


 展示会の会場の階に移動して、エトがほかの組合員の人たちと話している間、私はバラを自由に見て回る。


 柔らかくはんなりと香る色とりどりのバラに囲まれていると、自然とテンションが上がる。



「エリカ、楽しんでる?」


 エトが新聞紙に包んだ淡いピンクのバラを3本くらい、ひらひらと振りながら人混みをぬってやってくる。


「バラ園に来るよりもバラがたくさんあるよね。香りもいいし、最高」


 私の言葉に彼は柔らかく笑んだ。


「そう、よかったね。じゃあ、もっとテンション上がるよ。はい、これあげる」


 彼は手にしていたバラの束を私に差し出した。


「むこうにいる知り合いのヤンセンおじさんがくれたよ。彼のバラ園で作った新種なんだって」



 受け取ったバラは、うすいピンクで中心がほんのりとオレンジがかっている。鼻先を近づけると、ふわりと甘い香りがした。


「いい香り。なんていうの?」


Je bent liefユベントリーフ


「えっ?」




 バラの芳香とともに飲み込んだ衝撃で、心臓が跳ね上がった。


 


 唐突に、何を言い出すのかと耳を疑ってエトを見上げた。



 すると彼はふっと柔らかな笑みを浮かべて言った。


「ユベントリーフ。それがこのバラの名前なんだって」



 きみは優しいユベントリーフ。You are sweet.


 

「……すてきな名前ね」


 声が、上ずってないかしら?


 ちょっとした動揺を押し殺して、私は笑顔を作る。一瞬、「きみは優しい」って言われたのかと思って、すごく驚いた。



「オールドローズの改良品だね。いい香りだ」


 ほのかな甘い香りが、私の体の中に入り込んだみたい。ふわふわとした幸福感を感じる。



 Je bent lief.



 なんだかとても久しぶりに、涙があふれそうなくらい優しい気持ちになる。


 エトは何種類かのチューリップとバラを仕入れ、私はそれらの車への搬入を手伝った。それからレヴィのリクエスト通りに、ロゼット咲きの大輪の白バラも買った。


 後部座席にぎゅうぎゅうの花たちの放つ香りのなかで、私とエトはいろいろなことをしゃべりしながら市場を後にした。



 アトリエに寄って花を降ろす。エトは冷蔵庫フラワーキーパーの中に花を置き、中庭に面した温室でお茶を淹れてくれた。


「手伝ってくれてありがとう。おかげでいつもの半分の時間で済んだ」


「どういたしまして。あんな花だらけのところに行けてしかも日給までもらえるなんて、私のほうが得した気分」


「はは。じゃあ、時間あるときはまた手伝って」


「いいよ。喜んで」


「ねぇ、1週間後、キョウトの友達が来るんだ」


「この前言ってた、生け花の?」


「そう。香比呂タカヒロ。半分仕事、半分は遊びで」


 ふわりと、エトは口元に笑みを浮かべた。灰色がかった茶水晶のようなきれいな瞳が細められる。


「また大きな展覧会があるから、その時また一緒に行こう」




 自然に、すごく、自然に。


 花がほのかに香りを放っているように。


 私の心に、エトの優しさが染み渡る。


 


 私は微笑んでうなずいた。



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