第8話 出会い②



 明かりの灯り始めた暮れなずむ運河の風景は、5年前と何も変わらなかった。

 

 レンガのかわいらしい小さなホテルは、曽祖父の代から続く小さなホテル。裏口から入ると1階(日本で言う2階)ワンフロアすべてが事務所兼自宅になっている。




「オカエリナサイ、エリカちゃん!」


 レヴィの奥さんのゾエが、私にキスの雨を降らせてぎゅうぎゅうに抱きしめる。明るいブラウンの巻き毛をお箸でシニヨンにまとめて、うっすらとそばかすの乗った鼻先をくしゃりと寄せた懐かしい笑顔。薄い緑の瞳は相変わらず人懐こい。



 二人は運河に面した左端の部屋を私にあてがってくれた。



「ごめんね、エリカ。あなたが前に使っていた部屋は今、レヴィの友達が使っているの」


 ゾエはすまなそうにそう言ったけれど、きっとレヴィと二人で何日も話し合ってわざと別の部屋にしてくれたのだと思う。


 昔の部屋で私が悲しいことを思い出さないようにという、二人の配慮なのだ。


 とりあえず荷物を部屋に入れて、ダイニングでゾエが用意してくれた夕飯を三人でいただく。



「そういえばね、エトから電話があったわ。今日戻ってきたんだけど、アトリエに寄って来るから明日の夜帰るって」


 ゾエがレヴィにそう言うと、彼は大きな瞳を見開いて呆れた。


「えっ? なに? 僕さっき空港にいたんだよ? あいつ……もっと早く連絡してくれば拾ってきてあげられたかもしれなかったのに」


「あはは。彼の飛行機が何時に着いたのかもわからないじゃない? スマホ失くしたんだって、空港の電話からかけてきたのよ」


 ゾエは仕方なさそうに苦笑した。


「エト?」




 私が首をかしげると、レヴィが教えてくれた。


「ああ、さっき話したでしょ? 僕の友達。エリックが前に住んでた部屋を貸してるんだ。ひと月ほどキョウトに出張に行っていて、明日帰ってくるはずだったけど今日帰ったみたいだね」


 車の中で……聞いた、かも。家賃を払って住んでいる友達が一人いるって。きっとこれから毎日顔を合わせることになるだろうから、そのうち紹介するって。



 夕飯の後、二人にお土産を渡した。無事到着したとメッセージを送ると、日本は深夜なのにもかかわらず兄がビデオ通話してきて、レヴィとゾエは大いに喜んだ。


 

 お休みを言って、早めに部屋に戻る。


 黒い運河には、オレンジ色の街明かりが溶けてゆらゆらと揺らめいている。通りにはまだ多くの人々が行き交っている。




 帰ってきた。


 懐かしさと、得体のしれない不安が胸の中で疼いている。





          ✣✣­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–✣✣






はもう、アムステルダムダムスコにはいないはずよ」



 ホテルを手伝ってくれないかとレヴィに言われて迷っていた時、レイナは電話でそう言った。


 繊細な彼女はいつだって、私の心の中を見透かしてしまう。



 「だから安心して帰っておいで。あなたを傷つけるものは、もうないから」




 親友の言葉に背中を押されて、私は戻って来る決心をした。


 窓枠に寄りかかり、ぼんやりと運河を見下ろす。




 帰った来た。


 まだ実感はわかないけれど。




 ずっと戻りたかったのに、戻りたくなかったところ。


 そっとカーテンを引き、安堵のため息をつく。




 明日は、祖父母のもとへ。


 とりあえずスーツケースを開けて必要なものを取り出して、私はバスルームへ向かった。


 



 

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