第7話 出会い①




 しん、とあたりが静まり返る。




 いいえ、実際はただそう感じただけ。



 でも私にとっては、息をするのも忘れるくらいの驚きで、時が止まっているように思えた。




「大丈夫ですか?」



 低く、落ち着いた英語が降ってくる。


 そして鼻先をかすめるネロリの暖かくやわらかな香り。




「うわっ! ご、ごめんなさい、ミズ! ついうっかりしました! お怪我はありませんか?」


 私を突き飛ばしてしまった大柄な男性が、身を縮めて慌てて謝罪する。


「あなたが彼女を支えてくれて本当によかった、ありがとうございます!」


 彼は私を後ろで支えている人にもお礼を言った。


 周りの人たちからは安堵のため息が漏れた。大柄な男性はその横にいた奥さんか恋人かの連れの女性に腕をひっぱたかれて、不注意な行動を叱られている。




 背後の男性は私を支えた腕の力を抜き、少し屈んで私の体の脇に私のスーツケースをそっと置いてくれた。ふわりと、また肩越しに彼のネロリの甘い香りが漂ってくる。


「ありがとうございます……」


 私は日本語でそう呟いて、かすかに頭を下げた。


「あっ、日本語」


 男性は私のお礼にそう呟き返した。





 グレイがかった茶水晶のような透き通った瞳。薄茶色の長いまつ毛と、灰茶色の髪。


 すごく背が高い、混血の青年。黒いモッズコート、白のTシャツ、ジーンズにドクター・マーティン。私と同じ20代後半くらい?


「ケガしなくて、よかったですね」


 彼ははにかんだ淡い笑みを浮かべて、少し外国アクセントのあるやわらかな日本語でそう言った。


「ありがとうございます。スーツケースも捕まえてくださって……」


 改めて、私は頭を下げてお礼を述べた。


「あぁ、いえ。僕は自分のやつを取り逃がしちゃいましたけどね……」


 彼は斜め上を見て恥ずかしそうに頭を掻いた。


「ご、ごめんなさいっ……」


 私が再び頭を下げると、彼は大きな手のひらを私に向けてひらひらと振った。


「いやいや、あと一周待てば来るから、お気になさらずに」


 私たちの周囲の人たちは、珍しいものを見るように不躾な視線を送ってくる。


「はは。も本当に、お気になさらず」


 そう、ここはアムステルダム。日本語で話しながらお互いにぺこぺこと頭を下げていればとても目立つ。




 私はもう一度だけ頭を下げてその場を去った。





 出口を出るとすぐに、到着ロビーには懐かしい顔が見えた。


 日本人の血が四分の一入っているとは思えない、赤毛の大男。どちらかと言えば母方のドイツの血が濃い、私の従兄のレヴィ。私を見るなり大きく両腕を広げて走り寄ってきた。


「エリック! 久しぶりぃぃぃっ!」


「リーヴァイ……うっ、く、苦しいっ……」


 私のことをエリックと呼ぶのは、この大男の従兄しかいない。私も彼を愛称ではなく正式な名前で呼んだ。ぎゅうぎゅうとハグされて、私は真空状態になって気絶しそうになる。




 彼は体を離してしげしげと私を見た後、ヘーゼルの瞳をうれし涙でじわじわとにじませた。


「久しぶりだなぁ。元気そうだ……エリック。ヨウコソ、オカエリ」


 彼は最後だけ日本語で言った。私はくすっと笑って彼の太い腕をピタピタと叩いた。


「タダイマ。あなた一人? ゾエは?」


「迎えに来たがってたんだけど、今朝急遽、友達に子守を頼まれてさ」


 ゾエはレヴィの幼稚園からの幼なじみで、6年前に結婚した奥さんのこと。二人はおじいちゃんのホテルを受け継いで、旧市街地の運河沿いで経営している。



 

 私たちはレヴィの車で空港を後にした。


「ゾエのやつ、今夜は腕によりをかけるって張り切ってたぞ」


「そうなの? 楽しみだな。彼女の作るクロケット、大好き」


 私はふふふと笑った。楽しそうに話し続けるレヴィに適当に相槌を打ちながら、流れゆく暮れかけた車窓の景色をぼんやりと見つめる。





 5年前。



 幽霊のように憔悴した私を空港へ送り届ける間中ずっと、レヴィは声を出さずに泣き続けていた。


 もうアムステルダムにはいたくないと言った私に「待ってるよ」とだけ言って、ただ私を見送ってくれた。



 心優しい私の従兄。


 彼は運河沿いの小さなホテル兼自宅に着くまで、ずっと楽し気にしゃべり続けた。





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