第6話 回想④
その翌日から音楽祭が始まって……私はなんとなく、イザークと一緒にレイナのバンドを見に行くことになった。
帰り道、彼は私に言った。
「きみのことが気になって仕方ないんだ。ハンスに取られるかもしれないと思うと、いてもたってもいられなかった。きみが好きだよ、エリカ」
特別に彼を意識していたわけではないけれど……私は彼と付き合うことになった。
「はぁ?! やめなって。あいつはダメよ、エリカ」
私からの報告を聞くや否や、レイナは首を横に振り続けた。
「どうして、ダメなの?」
私の質問にレイナは目をすがめた。「本気で訊いてる?」と彼女の目が言っている。
今思えば、彼女がなぜ反対したのか、何が言いたかったのかはっきりわかる。でもその時の私には、本当によくわからなかった。
「日本人の女の子とみればすり寄っていくから、エリカも気を付けなよ」
「適当に受け流すわ」
そんな会話をしたことも、その時はすっかり忘れていた。異性として惹かれているわけではなかったけれど、いつの間にか、彼は私の心の中にするりと入りこんでいたのだ。
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「ご旅行ですか?」
隣の席の老婦人が、英語で話しかけてきた。穏やかだけど、陽気な話し方。こまかなしわの奥の青い瞳が好奇心に輝いている。人懐こそうな優しい笑顔。彼女のむこう側の席では、老紳士が静かに寝息を立てている。
「いいえ。親戚がアムステルダムに住んでいて、家業を手伝いに行きます」
長いフライトで伴侶もお休み中で退屈なのだろう。私の返答を聞いて、青い瞳が明るき輝きだす。
「まぁ! 私たちと逆ですね。私たちは娘が日本人と結婚してカナガワに住んでいるから、孫に会いに来たんです」
老婦人はスマホを取り出して、娘風や孫娘、孫息子の写真を見せてくれた。箱根や熱海、横浜中華街や京都に旅行したことも楽しげに話す。
「ごめんなさいね、お邪魔だったかしら?」
散々話した後に彼女はすまなそうに眉尻を下げた。私は微笑みながら首を横に振った。
「いいえ。日本を楽しまれたみたいで、よかったです」
実際、少し気がまぎれた。
5年前のことを思い出していると、何となく気持ちが沈んでいたから。
7時間の時差を逆行して、期待はアムステルダムのスキポール空港に着陸した。
老夫婦に別れを告げ、私は人の流れに乗りながら入国審査に向かった。
心にざわざわとさざ波が立つような感じ。
懐かしさと、最後にここを去った時の記憶がせめぎ合う。
少しの息苦しさに負けそうになって深くゆっくりと呼吸を整える。
私の白のスーツケースが回ってくる。手を伸ばして取っ手をつかもうとしたとき、すぐに後ろの大柄な男性が私に気づかずに少し早く身を乗り出したので、私は背後から押し出されてベルトコンベアに倒れこみそうになった。
間に合わない。
体勢を立て直す隙もなく、無様に倒れこむだろうと覚悟して目を固く瞑る。背後で女性の小さな悲鳴が聞こえる。
「……」
固いゴムのベルトコンベヤーの上に倒れこめば、顔面をすりむくかもしれない。大柄な男性のふいの力で押し出されたとすれば、それだけ勢いも加わる。
もしかしたら、腕を打撲するかもしれない。ああ。やっぱり、帰って来てはいけなかったかしら?
「……あぶなかった」
「えっ?」
後ろから抱きとめられて私は倒れこむことなく、強い力に支えられたまま立っていた。肩越しに日本語の低いつぶやきが聞こえた。
振り返ると、私のウエストを捕まえていた腕の力が緩んだ。
声の降ってきた上を見上げて、私は思わず固まってしまった。
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