第3話 回想①





「エリカ! お願いだから一週間、私の代わりにバイトして!」



 親友のレイナが切羽詰まった表情でそう言った。




 両親がモロッコからの移民で、彼女はハーグ生まれ。きりりとした眉とピーコックグリーンの大きな瞳、長い黒髪の人目を引く美女。大学のフランス語の講義で隣の席になってから、お互いのことは何でも話す大親友にまでなった。




「ええ? なによ、突然」


 私は首をかしげた。彼女がそんな急なお願いをしてくるのは、3年間仲よくしているうちで初めてのことだったからだ。


「うちのバンドが、オーディションに合格して。今週の水曜からレッド・ラウンジで一週間、ライブすることになったの!」


 私は驚きを飲み込んで彼女の両手を取ると飛び跳ねた。

 

「すごいじゃない! あ、そうか。水曜からは新しくカフェで働くって言ってたよね」


「ありがと。そう、一週間遅くから働き初めにしてほしいってオーナーに言ってみたんだけど、二人がすでに休暇取ってるし、週末にはパーティの予約が入ってるから困るって言われちゃって」


「うん、いいよ。代わりに行くよ。だからライブ頑張って」


「ああ、ベイビィモッピー! アリガトね!」 



 レイナは日本語で「アリガトね」と言って私をぎゅっとハグした。





 一週間だけ。


 友達の代わりにカフェでバイトする。


 私は軽く、ほんとうに軽く考えていた。







          ✣✣­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–✣✣







 搭乗案内のアナウンスが始まり、気の早い人たちが列を作り始める。


 私はまだベンチに座ったまま、ぼんやりと外を眺めている。







          ✣✣­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–­­–✣✣





 5年と7か月前。



 もしも私があの時、レイナのバイトを代わってあげられなかったとしたら?




 レイナが私に合う前に、他の誰かに頼んでいたら?



 きっと、運命は変わっていたのかもしれない。






 それとも……



 きっかけがどうであれ、そのうち彼にはどこかで出会ってしまっていたのかもしれない。



 彼。



 まっさらな紙の上に不注意に落とした黒いインクのように、私の心に染みを作ったひと。


 はじめて私に、他人の無責任な悪意の怖さを教えてくれたひと。


 すぐに拭ってもそれは、すでに狡猾に紙の表面に浸透していて、うっすらと跡を残し完全には消えない、嫌な思い出。




 愛しさも、憎しみも感じないのに。


 大切でもなく、忘れられないわけでもなく。


 忘れたいわけでも、忘れられないわけでもなく。



 道端ですれ違う人たちと、ほとんど変わらないくらいの存在価値なのに。


 いつまで経っても私の情にどうにかしてみついて、存在を消すまいとあがき続けている。




 どうして、私だったのだろう?


 どうして彼は、私を選んだのだろう?




 そして



 どうして彼はあんなにも冷酷に、私を捨てたのだろう?



 どうして?



 どうして?



 この5年間、不意に思い出しては繰り返してきた疑問。



 きっと、深い意味なんてない。


 たまたま。


 なんとなく。




 きっと、ただそれだけ。







 

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