第2話

 普通に歩けば三十分の道のりだが、ゆっくり歩けばちょうどいい時間につくだろう。それにしばらくは静かな時間を過ごせる。リーベルは頭の声の提案を断った時にそう考えていた。

 この街に暮らす人間ならば提案を断ることはまずない。その理由は大抵自らの抽象的な欲望を具体化して提案してくれるからである。たとえば「何か運動がしたい」という欲望に駆られたとする。するとその欲望を読み取ったのか、もしくは事前に予測していたのか、サッカーはどうか、公園を走るのはどうか、ジムで筋トレをしてはどうかと、自分ですら気づいていない今の自分に最適な運動を提案してくれる。それに了承すれば、どこそこの場所で何時からと指示を受ける。もちろん道順も移動手段も含めてである。

 もっと言えば、欲望に駆られなくとも健康の維持増進のため運動が必要となれば、何も思わずとも提案をしてくれる。これが運動のみならず何のテレビを見ようか、どこに遊びに行こうか、夕飯はどうしようか、そういった普段の生活の全てで行われる。つまり、頭の声が止むことは基本的にはない。

 その声はまさに神のお告げそのものであり、世間的にも社会的にも、提案を断る行為は推奨されていない。わざわざ提案してもらっておいて無下にするのは非常識だという言葉を日常会話で頻繁に聞くことができるが、それはあくまでも建前にすぎなかった。あまりに提案を断りすぎるとスコア、ひいてはランクに直結するからというのが市民の本音だった。


 街では日々の生活の中で変動するスコアと、スコア数に応じたランクというものが各人に与えられている。スコア制度は簡潔に言えば良い行いをした者には加点を、悪い行いをした者には減点をという仕組みである。良い行いと言うのは、社会規範に則り、秩序を乱さず、日々健康的で文化的な暮らしを営むことである。このスコア数を上げることでランクを上げることができるが、ランクごとにできることが異なる。最高ランクともなれば住む場所も変わり、全てが絵物語の王族並みの待遇が得られる。一方の最低ランクは、都市間の移動はおろか、住む場所や働く場所まで限定されてしまう。

 そうなれば誰もがスコア稼ぎのために提案を断らないのも無理はないし、提案を受け入れるのは当然だろうという態度でいることも納得できる。


 リーベルはというと、ランクは上から三つ目の優良市民に該当した。優良ランクは真ん中よりも少し上という立ち位置だった。そのため、少しばかり提案を断っても許される立場にはあった。それでも、ランクが上がれば上がるほどこのくらいならと軽い気持ちで提案を断る人はいなくなる。そういう意味ではリーベルは立場的に少し異質な存在ではあった。それでも脳内の声が周囲に漏れることもなければ、どこかに試験結果のように誰が何回提案を断ったというような掲示がされるわけでもないので、自ら言い出さなければ実生活上において何の問題もなかった。


 今のリーベルにはスコアを落としてでも静かな時間が欲しかった。断らなければ、『次の交差点を右折、突き当りを左に、公園を通り抜けましょう』と絶えず道順を指示されることになる。それでは折角の夕暮れ時の雰囲気が台無しになってしまうし、正直声を聞くのもうんざりしていた。こうして断っておけば友人と食事を終えるまでの三時間くらいは声を聞かずにいることができ、束の間の自由を謳歌できる。

 それでも無機質な声が消えた所で、自らの情緒的な声がいなくなることはなかった。その声が楽しいことを語ってくれのなら良いのだが、往々にして語られることは悩み事やどれほど苦しい思いをしているのかという耳を塞ぎたくなる事柄であった。


 この日、その声が語ったのは妻のオードリーとの関係のことだった。結婚して二年が過ぎ、最近は妻との折り合いが悪く、同じ空間にいることすら気まずかった。新婚時には、柄にもなく「愛している」とよく言ったものだが、今となっては「ただいま」と声をかけることすら億劫だ。

 原因が自身にあることは理解していたし、発端もわかっていた。新婚旅行のあの日に見た女の子。その少女が発した言葉が全ての元凶だった。女の子の怒った表情と、子供特有のキーキー声。今でも目の前にいるかのように完全に再生できる。


『中はいろんな目があって楽しくない! 戻りたくない! ここにずっといる!』


 この少女の言葉がリーベルの中で眠っていた感情を掘り起こすことになってしまった。この時から、折に触れて少女の声がリーベルを蝕み始めた。特に〈神〉から提案を受けてそれを了承するとき、その言葉が強くリーベルを苦しめた。まるで耳元で数百の赤いランプの警報装置が鳴り響くようなそんな感覚だった。

 提案は日に何度も行われ、その度に警報装置が作動していれば精神的に参らないわけにはいかなかった。それでも、誰かに相談するわけにはいかなかったし、周囲にばれることすら危険だった。それはたとえ親友である二人にしても、かつては恋していた女性を前にしてもだった。


 答えの出ない問いに鬱々とした気分でとぼとぼ歩いていると、目の前をボールが転がっていった。反射的に駆け寄って、ボールを拾い上げる。すると背後から少年がすいませんと言いながら走ってくる。リーベルは気をつけるようにと声をかけながらボールを返すと、少年は元気一杯の笑顔で返事をし、元来た方向へと走り去っていった。

 リーベルは無意識の内に目だけを左右に動かしてしまっていた。周囲では街行く人々が悔しそうな、羨ましそうな視線を向けているのがすぐに分かった。リーベルは努めて平静を装い、普段通りの表情、歩き方を思い出しながら、少しぎこちなく歩み始めた。


 リーベルはこの刺すような視線がひどく嫌いだった。表情は能面を着けたかのような笑顔か真顔。その面の下で嫉妬から醜く顔を歪ませていることが、空いた二つの覗き穴から容易に見て取れた。

 彼らがそのような視線を投げかけるのは当然、スコアに大きく関わるからだった。リーベルが少年のボールを拾ってあげた様子を見ていたのは人だけではなく、上空を飛ぶドローンも同様に見ているのである。ドローンがその行いを良いこと判断すれば、リーベルの持つスコアに何点か加算されていることだろう。

 誰しもがそのスコア欲しさに善行をしようとする。その傾向は上位ランクであればあるほど顕著で、下位では半ばランクを上げることを諦めている人も少なくない。もちろんそんな人たちも、目の前に絶好の機会が訪れれば嬉々として人を助け、心の中ではこれは何点になるかなどと考えながら、周囲には私はいい人間ですよと胸を張ってそれとなく主張するのである。中にはそのようなことを全く考えずに行動できる人間もいるだろうが、このランク社会では絶滅危惧種と言えるだろう。

 リーベルも言うなれば絶滅危惧種だった。損得など一切考えずに自然とボールを拾ったのだが、そんなリーベルでも周りからの視線を嫌いながらも、頭の片隅では何点が加算されたのか、次のランクまであと何点か、ということをつい反射的に考えてしまっていた。幼少のころからスコアが身近な存在であったため、これは致し方のないことだとも言えるが、リーベルはそんな自分にも嫌気がさしていた。特にあの少女の声が聞こえだしたころから嫌悪感に近いものを感じ始めていた。それは今では内側から外側へと原因を求めて飛び出し、今ではこの社会そのものを激しく憎悪していた。

 たとえどんなに良いことを完全な善意から行ったとしても、周囲からは「スコアが稼げて運が良かった」だの、「所詮は偽善だろ」だのと直接言葉では言われずとも、心の中ではそう思われているのである。こういう時にはなるべく得意げにせずに、さも当然のことをしたまでですといったような自然な態度を取らなければならない。得意げな顔をしようものなら心の中でどれほど罵倒されるか分からない。だからと言って平然としていても、何食わぬ顔しやがってと思う人は思うのである。結局のところどうしようもない。情けは人の為ならずという言葉があるが、皮肉なことにこの社会では情けを持たない者が幸福を手にし、情けを持つ者が思い悩む。


 スコアがなければどれだけ心が楽になるだろうかと、あの視線を感じるたびに強く思わずにはいられなかった。

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