泣く少女は、摩天楼で何を

星咲 紗和(ほしざき さわ)

本編

夜遅くの帰り道。摩天楼がそびえ立つ都会の片隅で、僕はひどく疲れていた。残業でくたくたになった体を引きずるようにして、ビルの間を歩いていると、突然、頭上から大粒の雨が降ってきた。スコールだ。傘も持たず、街の灯りがかすかに反射する濡れた舗道を踏みしめ、急ぎ足で家へ向かおうとしていたその時――。


「……うっ……うっ……」


どこからか、泣き声が聞こえてきた。雨の音に混じり、かすかな嗚咽が響く。それは道端からだ。ふと目をやると、濡れた路上に少女が一人、蹲っている。真っ暗な街の中で、まるで世界から切り離されたかのような存在感。長い黒髪が顔を覆い、薄暗い明かりの下でその小さな体が震えているのが見えた。


「どうしたんだ?」


僕は近づいて声をかけた。何か理由があるに違いない。だが、少女は返事をしない。いや、正確には、返事をする前に彼女の姿がふっと消えたのだ。雨の音が強まる。目の前にはもう、誰もいなかった。


「今のは……なんだったんだ?」


不思議に思いながらも、その場を離れようとした瞬間――また、後ろから啜り泣く声が聞こえてきた。振り返ると、さっきと同じように、少女がそこにいた。再び蹲り、肩を震わせて泣いている。さっき消えたはずなのに、同じ場所に、同じ姿で。


奇妙な感覚に襲われながら、もう一度近づいてみる。だが、またしても近づくと、少女はその場から消えてしまった。そして、今度は雨が一段と激しく降り出す。耳をつんざくような雨音が、周囲のビルに反響し、街全体が水に包まれていくかのようだ。


歩道が次第に冠水し始め、僕の靴は水に浸かっていった。それでも、泣き声は消えない。いや、それどころか、どんどん強く、耳に響くようになっていく。そしてまた、少女の姿が――。


今度は少し距離を取って、静かに観察してみた。雨で濡れたアスファルトに映る彼女の影、震える肩。呼吸すらも乱れそうなほどに不気味な状況だったが、何か引き寄せられるように、僕はもう一度彼女に歩み寄った。


「……大丈夫か?」


言葉を発した途端、少女は消え、またしても雨が強まる。空を見上げると、ビルの間から覗く暗い雲が、まるでこの街を呑み込むように広がっている。そして、再び背後から泣き声。何度も、同じことが繰り返される。少女が現れ、近づくと消える。そのたびに雨は激しさを増し、僕の心臓は高鳴り続ける。


時間の感覚がなくなる。何度も、何度も、少女が現れては消え、そのたびに雨は強くなり、ついに道路は完全に冠水してしまった。僕の体は水に飲まれ、次第に動くことさえままならなくなる。


「助けて……」


声を絞り出すが、誰もいない。少女だけが、遠くで泣き続けている。やがて僕は、全身の力が抜け、冠水した道路に倒れ込んだ。水の冷たさが皮膚に染み込む感覚だけが残り、意識が遠のいていく。


目が覚めた時、僕は病院のベッドの上にいた。白い天井が見える。どうやら気を失って運ばれたらしい。頭が重く、体がだるい。ゆっくりと体を起こして、辺りを見渡すと、扉の向こうに、誰かが立っている。


「……!」


あの少女だ。病院の薄暗い廊下に立ち、こちらをじっと見つめている。泣き顔ではない。ただ、無表情で僕を見ている。


「なんだ、これは……?」


僕の頭は混乱していた。あの夜の出来事は夢だったのか、現実だったのか。なぜここに少女がいるのか。答えを探そうと必死に考えるが、何もわからない。ただ一つ、確かなのは――彼女はここにいるということ。


そして、その瞬間、再び聞こえてきた。あの啜り泣きの声が、病室に響き渡る。姿はそこにあるのに、泣き声はどこか遠くから、まるで何かに導かれるかのように。


「お前は、誰なんだ……?」


僕が声を絞り出したその瞬間、少女の体はすっとかき消されるように消えた。まるで、あの夜と同じように。部屋の中は静寂に包まれ、ただ遠くから降りしきる雨の音だけが、窓の外から聞こえてくる。


その夜、僕は眠れなかった。少女の姿と、繰り返される奇妙な出来事の記憶が、頭を離れない。彼女は何者だったのか。なぜ僕の前に現れたのか。そして、このまま現実の世界に戻れるのか――。


摩天楼の下、雨の降りしきる夜。あの少女は、今もどこかで泣いているのだろうか。僕はその答えを知ることなく、ただ不安と恐怖の中で目を閉じるしかなかった。


(終わり)

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泣く少女は、摩天楼で何を 星咲 紗和(ほしざき さわ) @bosanezaki92

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