第2話:日常

「増減表さえ書けるようになったら大半の問題で及第点には届くから!」

 放課後、いつものように僕は香苗と空き教室で勉強をしていた。

 うちの高校には空き教室がいくつもあり、基本的にはフリーで解放されているのだけれど、僕たちのようにカップルで利用しているとみんな気を遣って入ってこないことが多い。

 今日の科目は数学。香苗は成績優秀なので、実家から通える国立大学への合格はほぼ確実と言われていた。


 いつか香苗に「二十歳で結婚するのに大学に行くの?」と聞いたことがある。

「だって、大学行ってみたくない? 中退することになったとしても、受験勉強を頑張って、大学に行ったっていう経験値が将来何かの役に立つと思うんだよ。その件で親とか許嫁とも言い合いになったんだけど、実家から通える国立大学ならOKという条件でカタがついたんだ」

 ちなみに、僕と付き合っていることは誰にも言っていないらしい。

 付き合う前の予告通り毎晩電話しているのだけれど、家が広すぎて部屋の中で何をしていてもバレないようだ。

「さすがに増減表は書けるよ。微分さえできれば基本的にはそのf(x)が0より大きいか考えるのと、あとは極値を求めるくらいでしょ?」

「ふむー、そこまでできるならあとは応用問題をひたすら解けばいい気もするね。じゃあ今日はひたすら応用問題を解こっか」


 付き合い始めてから、僕らの平日はだいたいこんな感じだ。毎日二人で勉強をして、彼女の家──とは言っても、付き合っていることは内緒なので、家の側まで──まで送り届けて、眠くなるまで電話をする。時々寝落ちして、朝彼女の寝息で目を覚ます。

 週末も学校や図書館で同じように勉強することが多いけれど、時々は遊びに出かけた。受験生らしくハメは外さない程度に。

 香苗はいろんなことが初めてだった。

 カラオケやボウリングさえも幼い頃家族で行ったきりらしく、どんなデートも新鮮に驚いてくれた。

 彼女はとても好奇心が強く、何にでも興味を持つタイプなので、二人でたくさんのことにチャレンジをした。

 ショッピングモールへ買い物に行ったと思えば、その翌週は河原でモルックをするような二人だった。


 微分積分は比較的得意な部類である。そもそも数学は全般的に苦手ではない。よっぽど英語や古文の方が無理。

「……みくん」

 数学だけなら近所の国立大学も合格ラインに届くだろう。僕はそう自負していた。

「辰巳くん!」

「ひょお」

「どんな声出してるのよ……」

 頬にペシ、とデコピンを食らった。デコピンを、頬に?

「今のはほっぺピン」

 僕が頬を押さえながら”今のはデコピンじゃなくなんなんだろう?”と思っていたら、心を見透かしたかのようなコメントがついた。

「コッペパンみたいだね」

「……結構違くない?」

「で、ごめん。全然気づいてなかった。どうしたの?」

 そう聞くと、香苗は手帳を取り出した。

「受験勉強を頑張っている辰巳くんに問題です。今年の12月24日は、何の日でしょうか!」

「……?」

 今年のクリスマスイブ? なんかあったっけな。

 僕は微積から瞬時に頭を切り替えて考える。

 香苗の誕生日は夏のはず。まだ付き合って数か月。何かしらの記念日でもないはずだ。だったらなんだ? 誰かの配信とかテレビとかあったっけな。

 などと考えていると香苗は信じられないものを見るかのような目を僕に向けた。

 恋人に向けるまなざしではなかった。

「や、あの、辰巳くん。12月24日と言えば、クリスマスイブ、だよ?」

「……」

「…………」

「……………………いや、”今年の”って接頭語ついてたじゃん!」

 罠すぎる!

 心の中でそう突っ込んだ瞬間、彼女の顔がずい、と耳元に寄ってきた。

 吐息がかかる。

 不意の感覚に心臓がどきんと跳ねた。

「でね、辰巳くん。提案があります」

「な……なんでしょう」

 彼女が一音発する度に、熱い風が耳の中を撫でていく。


「クリスマスイブさ、お泊り会しない?」


 その提案に対して、受験勉強のどのタイミングよりも僕の頭は高速で回転した。

 行きたい。当たり前だ。クリスマスとか関係なく、香苗とお泊り会なんてしたいに決まっている。

 僕だって健全な男子高校生。恋人とのお泊りが何を指すのかくらいわかっているし、そういう欲も当たり前にある。

 彼女の方も重々理解しているだろう。むしろ、誘ってきた彼女の方が覚悟をしているに違いない。


 でも、だからこそ僕は少し引いてしまった。


 クリスマスイブ、きっと彼女はそういう気で臨んでくれるだろう。

 僕だってそうだ。

 でも、許嫁がいて二年後に別の人と結婚する女性の初めてを貰ってしまってもいいのだろうか。

 ――僕たちはまだキスもしていない。

 性行為には色んなリスクが付きまとう。

 クリスマスイブに起こる出来事は、僕の中で明確に何かしらのラインを越えていた。

 そもそも。

「家の方は、大丈夫なの?」

 僕の第一声がそれだったからか、香苗は少しだけ悲しそうな顔をして、「だいじょうぶだよ」と言った。

「成績がいいからさ、クリスマスに女友だちとお泊りに行くって言ったら普通にOKが出たんだ」

「そっ……か」

「ねえ、やだ?」

 香苗が上目遣いで聞いてくる。

 嫌なはずがない。行きたい。決まっている。

 でも。

 でも、と自分の気持ちを正直に言いかけて、僕は我に返った。

 自意識過剰じゃないだろうか。

 ここで香苗に「君と性行為をする勇気がまだない」と言ってみて、「何考えてるの」と言われたらあまりに恥ずかしい。だって僕たちはキスすらまだしていないんだ。

「――行きたい。もちろん。嬉しすぎてちょっとびっくりしただけ」

 少しだけ考えて、僕はゆっくりとそう答えた。

「やった!」

 香苗と僕はその場で当日の予定を詰めにいった。昼間に集合をして、買い物をして、映画を観て、晩ご飯を食べる。

 問題の宿泊場所については、香苗が「予約しとくよ」と買って出てくれた。

 近隣に、高校生でも問題なく宿泊できると噂のそういうホテルがある。きっとそこを予約してくれるんだろう。そういうホテルって予約できるのかな、と僕は場違いなことを考えた。

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