第10話、忘れていた「熱」
六月。この世界は雨季に入った。
恋人になっても二人の関係は以前とあまり変わらない。ほとんどの時間を画家とモデルとして過ごしていた。
風邪を引いてはいけない、と最近の優は服を着たままでモデルをしている。
「それじゃあ、ちゃんと塗れないんじゃ……」
心配する優にランスは微笑んで言った。
「大丈夫。ユウの身体のことはもうちゃんと頭に刻んであるから」
その言葉に、優の頬が赤く染まったのだった。
ざあ、ざあ、と雨が降り注ぐ。アトリエには絵筆に絵具をたっぷりとつけてキャンバスに向かうランスの熱気が溢れていた。雨の音だけが室内に響く。優も黙って横になっていたのだが、急に身体の変化を感じた。
――あれ? 何か、熱い……。
眠気とは違う、くらくらとする感覚に、思わず優は起き上がった。そんな優に、ランスは目線を動かして訊いた。
「ユウ、疲れた?」
「いえ……何か、身体が……」
「大丈夫? 同じ体勢で居てくれているから痺れちゃったかな?」
ランスは絵筆とパレットを机に置いて、優の元に足を運んだ。優は首を振る。
「痺れた、とかじゃなくって……何だか熱くて……」
「大丈夫かい? 冷えて風邪でも引いちゃったかな……」
心配そうにランスは、優の額に手を当てた。その時、びりりとした感覚が優を襲った。触れられたところから熱がどんどん全身に広がっていく。
――ああ、これは……!
優は、思わずランスの手を振り払ってしまった。突然の出来事にランスは驚く。優は、はっとしてランスに言った。
「ごめんなさい……あの、俺に近付かないでください……」
「ユウ、どうしたんだい?」
肩に触れようとするランスを優は避けた。駄目だ、触られたら、駄目だ。
「駄目、です……俺、今、たぶん、ヒートが来てるから……」
「え、ええっ!?」
出した手を引っ込めたランスに、優は少し傷ついたが、今はそんなことを言っていられない。薬を……抑制剤を飲まなければ……!
ふらふらと優は立ち上がった。抑制剤は自室の机の上だ。取りに行かないと……。
「ユウ、大丈夫かい……っ」
「……ランスさん? ……ああ……」
自分が出すフェロモンに当てられているのだ、と優が理解するのに数秒かかった。
――駄目だ、こんなことしてたらランスさんに嫌われる……!
「ランスさん……この部屋の鍵して、ここに居て下さい。俺、薬飲んできますから」
「でも……心配だ」
「大丈夫ですから、鍵してて下さい……お願いします」
壁伝いに優はアトリエから出た。そのまま重い足取りで何分もかけてようやく自室に辿り着く。
「薬、くすり……」
机の上の抑制剤の箱に手を伸ばす。まだ未開封のそれを手に取ると、震える手で中身を取り出した。中には白い錠剤が入った瓶が入っていた。
「ええっと……十五歳以上は三錠……」
優はキャップを開けて、ゆっくりと錠剤を三つ取り出した。それを水無しで口の中に放り込む。抑制剤は舌の上で苦みを作りながら、ゆっくりと溶けて優の体内に消えていった。
「早く、効くかな……」
薬局の店主は、良く効くものだと言っていた。今はその言葉を信じて効き目を待つしかない。ふらふらと優はベッドに向かい、勢い良く横になった。
――身体が熱い。
完全に油断していた。前に居た世界では、日々ヒートが来ることに怯えていたのに。この世界は――ランスの傍は居心地が良すぎて自分の身に訪れる恐怖のことを忘れてしまっていた。
「っ……」
後ろが濡れる感覚に、優ははっとした。前も熱を持って固くなっている。
「駄目だ、こんな……」
優は手の甲を噛んだ。今、はしたないことをしたくは無かった。しかし、敏感なところは疼く一方で、なかなか収まらない。
「薬、合わないのかな……」
熱い。
全身が馬鹿になったみたいに、シーツに触れているだけの肌でさえ強い感覚になって優を襲った。
――触って欲しい。
優は目を閉じて、ランスの大きな手のひらを思い出していた。あの手で触れて欲しい。全身を優しく撫でて欲しい……。
そう思ってしまった時だった。
「……ユウ」
「……っ、な、何で!?」
開け放したドアの前に、ランスの姿があった。
「ランスさん、アトリエに居てって……」
「ごめんね。苦しそうなユウを見ていたら、放っておけなくて……」
一歩、ランスが足を進める。優は起き上がり、ベッドの隅に移動した。
「駄目です……来たら……俺、ランスさんのこと……誘惑したくない……」
目に涙を浮かべて優は言った。しかし、ランスはまた一歩、ベッドに近付いてくる。
――怖いっ……!
優は自分の身体を抱きしめた。力が強すぎて爪が皮膚に刺さる。だが、今はそんなこと気にならなかった。
がたがたと震える優に、ランスはゆっくりと言葉を紡いだ。
「ユウ、聞いて欲しい。今、ユウのフェロモンは僕には効かない」
「……何で、ですか? だって、ランスさんはアルファでしょう……?」
「確かに、僕はアルファだ。だから、こういう場面に遭遇した時の為に、お薬を持ち歩いている」
「薬……?」
「そう。簡単に言うとね、オメガのフェロモンを無効化するお薬なんだ。これは最近開発された物で、ほとんどのアルファがこれを使っている」
「そんなのが、あるんですか……?」
「そうだよ。僕はさっきそれを飲んだ。だから、ユウ、君が僕を誘惑してしまうなんて事故は起きない」
事故。その言葉の重みに優は震えた。
もし、フェロモンを抑える薬が無かったらどうなっていたのだろう……。
両親以外のアルファと過ごしたことの無い優にとって、それは未知なる答えだった。
「ユウ、僕はユウの力になりたい……恋人なんだから」
真剣なまなざしで突き抜かれ、優は言葉に困った。
「……本当に、大丈夫ですから、ランスさん……」
「でも、顔が真っ赤だ」
「……っ」
いつの間にかランスはベッドの横まで来ていて、震える優の頬に手を伸ばして触れた。
「……あ」
小さな刺激が波紋のように広がり、大きな快感になった。優の口から、高い声が漏れる。慌てて優は自分の口を手のひらで塞いだ。
「抑制剤、効かない? すぐには効かないよね……」
「ん……」
「ごめんね。こんな時に、何もしてあげられなくて……」
優はぼんやりする頭でランスを見た。彼は、悲しそうに眉を下げている。
「そんな、顔……しないで……」
「ユウ……」
「薬、もっと飲んだら、早く治るかも……」
「過剰摂取は駄目だよ」
そう言いながら、ランスは抑制剤の箱に手を伸ばす。そして、側面に書かれた文字をゆっくりと読み上げた。
「……効果は三十分以内に、だって。ユウ、頑張って……」
「う……」
「僕、居ない方が良いかな? ひとりの方が落ち着く?」
ランスの言葉を聞いて、優は「ひとりには、なりたくない」と思った。
恥ずかしい姿を晒すのは嫌だが、ひとりぼっちになるのは……孤独を感じるのは、もっと嫌だ。
「ランスさん……行かないで」
「うん。ユウがそう望むなら」
「手、繋いで欲しい……」
「うん。ずっとこうしていようね」
ランスの手が優の手を包む。不思議と熱は感じなかった。抑制剤が効いてきたのかもしれない、とぼんやりする頭で優は思った。
「ランスさん……」
「うん、ここに居るよ」
ヒートの時は、いつだってひとりだった。
けれど、今は違う。愛する人が、傍に居てくれる。そのことが、優には心強かった。
「大好き、ランスさん……」
そう小さく呟いて、優は意識を手放した。
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