第9話、初めてのキス

 翌日、優とランスはポーンの家に来ていた。

 ポーンの家は、足の踏み場もない、ほどではないが散らかっていた。床には何かの部品が大量に積まれ、その山から落ちたものが、ところどころに転がっている。

 玄関を入って早々、謎の奇妙なオブジェが二人を迎えてくれ、優は小さな悲鳴を上げた。


「ひっ……」

「ごめんね。ポーンの趣味なんだ……」

「やあ、良く来てくれた! ユウ、そいつが気に入ったかい?」


 優の身長くらいの高さのオブジェを指差しながら、ポーンは笑いながら言った。優は何と返せば良いのか分からず、引きつった笑みを浮かべる。ポーンは自信たっぷりな様子で説明した。


「こいつは防犯対策のオブジェだ! 夜になると、この目の部分が光る!」


 黄色い大きなガラス玉を指差してポーンが言った。優は首を傾げる。


「これ、顔なんですか……?」

「他に何に見える? これが鼻でこれが口で……」

「ポーン、君の発明の凄さは重々承知しているから、そろそろ本題に……」

「ああ、そうだったな! じゃあお二人さん、リビングへどうぞ!」


 三人は広く長い廊下を進む。途中で長い螺旋階段に遭遇した優は思わず息を呑んだ。本当に豪邸という言葉がしっくりくる住まいだ。散らかっているのを除いては。

 リビングは一番突き当りにあった。その隣がキッチンになっている。ポーンはキッチンのカウンターに入り、お茶の準備を始めた。優とランスはリビングのソファーに腰掛ける。広い室内を、優はそわそわと落ち着かない心で眺めた。


「コーヒーと紅茶、どっちが良い?」

「紅茶」

「お、俺も紅茶で……」

「了解!」


 ポーンは手際良く紅茶の用意をした。三つのカップをトレイに乗せてテーブルまで持って来ると「粗茶ですが」とおどけてカップを並べてくれた。それからクッキーが山盛りにされた皿をテーブルの真ん中に置く。クッキーの色は原色の赤色、青色、黄色……が中心で、正直食べられるのだろうかと優は心配になった。においはとても香ばしいが。

 ポーンはクッキーの山から真っ赤なそれを一枚手に取ると、口に放り込んで食べた。そうして、口をもごもごさせたまま言う。


「今日、皆に集まってもらったのは他でもない!」

「前置きは良いよ。ポーン、僕が今、とても忙しいのは知ってるよね?」

「知っているさ。天使の絵を描いているんだろう?」


 ポーンは優を見てウインクした。優は何だか照れ臭くなって下を向く。ランスは溜息を吐いてから口を開いた。


「そう、絵を描いてるんだ。今でも続きが描きたくって仕方が無い」

「相変わらず職人気質だなあ」

「それを君が言うかい?」

「まあまあ、その話は酒の席でということで……実は、今日はユウに用があるんだ」

「えっ? 俺に?」


 優は目を見開いた。てっきり、自分はランスのついでに呼び出されたものだと思っていたからだ。

 そんな優に、ポーンは先ほどまでとは打って変わって真剣な目をして言った。


「ユウ、そろそろ君に掛けた魔術が解けてしまう」

「……へっ?」


 魔術? 何のことだろう、と優は固まった。そんな様子の優の肩に手を回し、ランスがポーンに問い詰める。


「ポーン! 君、ユウにいったい何をしたって言うんだい!?」

「落ち付き給え。これはとても重要な魔術なんだから」

「重要な魔術?」


 ぎろり、とランスはポーンを睨んだ。ポーンは怯むことなく言う。


「簡単に言うとなユウ、君に掛けた魔術は言葉を翻訳してくれる魔術だ」

「言葉を、翻訳……?」


 優は驚いて口元に手を置いた。そんな魔術聞いたことが無い。もっとも、魔術とは無縁の生活を送って来たのだから無理も無いのだが。


「……どういうことだい?」


 ランスが口を開いた。ぎゅっと優を抱く手の力が強くなる。その様子を見ながら、ポーンがゆっくりと説明する。


「ユウ、君と俺は元居た世界で言葉が通じただろう?」

「はい」

「それは、君と接触する前に、言葉の魔術を掛けていたからなんだ」

「それってどういう……」

「考えてみてくれユウ。君は異世界の住人である俺たちと普通に言葉を交わしている。とても不自然じゃないかい?」

「それは……確かに変です」


 考えてみればそうだ。普通なら住む世界が違っているなら言葉も違っているはずだ。それなのに優は何の不自由もなくランスたちと意思疎通出来ている。こんなこと、本来ならあり得ない。納得がいったのだろう、ランスは優から手を離して真っ直ぐにポーンを見つめて言った。


「その魔術が解けたら、ユウはとても困ってしまうじゃないか。もう一度、術を掛け直してあげてくれないか?」

「ところが、それは出来ないんだ……」


 眉を顰めてポーンが言う。


「この魔術は一度掛けると二回目以降、効き目が薄れてしまうんだ。だから、重ね掛けはあまり良くない」

「じゃあ、どうすれば良いんだい? このままだとユウは……誰とも話せなくなってしまうじゃないか」

「……っ」


 恐怖が優を襲った。せっかく良い出会いをしたのに……これからどうすれば良いのだろう。言葉が通じなくては、ランスに抱いている恋心も、何もかも叶わなくなってしまう。

 ポーンは俯く優に優しく話し掛けた。


「方法は二つある。一つは今から猛勉強することだ。魔術が効いている間に、こっちの言葉を……そうだな、児童書なんかから覚えてしまえば良い」

「も、もう一つは……?」


ポーンは手を震わせる優の耳元に口を近付け、囁いた。


「……え?」

「それが、二つ目の方法だ」

「ポーン、僕にも教えておくれよ」

「いいや。これはユウから直接聞くんだな」


 ランスと目が合った優は、咄嗟に俯いた。

 優は顔を耳まで赤くして、握った拳を膝の上に置いて震わせていた。


***


「ユウ、本屋さんに行こう。何か簡単な本を買いに」


 ポーンの家を後にした二人は、とりあえずランスの自宅に帰った。優はぼんやりと宙を眺めている。そんな様子の優に、心配そうにランスは話し掛けた。


「ユウ、ショックだよね……可哀そうに。でも大丈夫、僕が言葉を教えてあげる。人にものを教えるのは下手くそだけど、きっとユウの力になってみせるよ」

「……はい」


 心ここにあらずな優は、ちらりとランスの顔を見た。そして、すぐに顔を赤くしてまた視線を宙にさ迷わせた。


「ユウ? もしかして、二つ目の方法に僕が関係しているの?」

「……へっ? な、何でそんなこと言うんですか!?」

「分かりやすいよ、ユウ。ね、僕は何だってユウの力になりたいんだ。だから教えて欲しい。二つ目の方法ってやつを」

「む、無理です! これは……ランスさんに迷惑に……」

「やっぱり僕に関係しているんだね。さあ、言ってみて。僕に出来ることなら何だってするから。それとも、そんなに難しい方法なのかい?」

「……いえ、そういうわけではないんですが」

「じゃあ、言うと良い。ほら、正直に」

「ひ、引くかも……」

「引いたりしないよ」

「……す」

「何?」

「き……す……です」

「きす?」

「だから、キスですってば! 愛する人からのキスで魔術は永遠に続くって! ……あ」


 優は大きな声で叫んでしまった自分に赤面する。ランスは、一瞬、目を丸くして優を見て固まった。


「だ、だから、つまり、その……」

「……そうか、僕がユウにキスすれば良いんだね?」

「……っ」


 優は赤い顔のまま下を向いた。そうです、なんて言えない。ランスは顎に手を置いて、しばらく何かを考えているようだった。彼は数分してから、やっと口を開く。


「愛する人からのキスって言ったよね? ユウ、君は僕のことが好きなの?」

「……あ」


 ――最悪だ。


 心に秘めていた感情が暴露され、優はこの場から消えてしまいたい気持ちになった。ちゃんと、いろいろなことが出来るようになってから言おうと思っていたのに。ランスに認められてから伝えようと思っていたのに――。

 優は力なくその場に崩れ落ちた。そんな優にランスが近付く。


「ユウ?」

「……はい」

「教えて? 僕のこと、好き?」


 ランスも身を屈め、優と視線を合わせた。淡い緑色の瞳と赤い瞳がぶつかり合う。


 ――もう、逃げられない……。


 優は思い切って、口を開いた。


「……好きです。ランスさんの、ことが、好き……」

「いつから?」

「そんな……いつからとかじゃなくって……気付いたら好きになってました……」


 どきどき。

 どきどき。

 耳の奥で心臓の音が響く。

 生まれて初めての告白は、こんなにも情けないかたちになってしまった。優は目に涙が溜まるのを感じた。


「ユウ、君って子は……」

「っ!」


 そんな優をよそに、ランスは跪き、震える優を抱きしめた。優は驚きのあまり涙を零す。


「あの、ランスさん……」

「……僕はね、ユウ。君に一目惚れしてしまっていたんだよ……」

「……へっ」


 一目惚れという言葉に、優は目を見開く。そんなことは、ありえないと思った。何の取り柄もない自分に、そんな言葉は似合わない。

 ランスは優を抱きしめたまま、言葉を紡ぐ。


「最初はね、外見だけだった。けれど今は中身まですべてが好きだよ。頑張り屋さんで、必死にいろんなことを覚えようとしている姿に……惚れた」

「ほ、惚れたって……」

「嬉しいな。まさかユウと両想いだったなんて」

「り、両想い……?」

「違うの?」

「いえ……そうです。両想いです……」


 ランスは優の手を取ると、ゆっくりと立ち上がらせた。そして、また抱きしめる。背の高いランスの胸に顔を預けるかたちで優はすっぽりとそこにおさまった。


「嬉しくて、涙が出そうだ」

「ランスさん……その、えっと……」


 今、自分の状況に頭がついていかない中、優は必死に伝えたい言葉を探した。


「……ありがとうございます。俺のこと、す、好きになってくれて……」

 

 優の言葉に、ランスは目を細めた。 


「それはこちらの台詞だよ。僕を選んでくれてありがとう。凄く嬉しい」

「ランスさん……」


 ランスは優を抱きしめる腕の力を少し緩めた。

 優はランスを見上げる。

 見つめ合うこと、数十秒、ゆっくりとランスの顔が優に近付いてきた。


 ――あ、キス。


 咄嗟に優は目を瞑ると、しばらくしてからくちびるに柔らかいものが触れた。キスだ。初めてすることなのに、それがキスであるということは、不思議と理解出来た。


「……キス、出来たね」

「はい……」


 優が目を開けると、どこか熱を持ったようなランスの瞳が見えた。初めて見るその色に、優の心臓が跳ねる。


「これで、ずっとユウとコミュニケーションが取れるね」

「……はい」

「……良かった」

「……っ」


 もう一度、くちづけられた。

 ランスの舌が、優のくちびるをノックする。おそるおそる優は口を開くと、ランスの舌が中に入って来た。


「……ん、っ……」


 優は声を漏らす。初めての、しかもこんなに深いキスに戸惑い、思わず優はランスの胸を押した。


「ごめん、苦しかった?」

「……ちょっとだけ」

「キス、初めて?」

「……初めてです。キスも恋も全部……」

「じゃあ、僕がユウの初めて全部を貰えるんだね。凄く嬉しいよ」


 また近付いてくるくちびるに身構えたが、それは触れるだけの優しいキスだった。

 ランスは、また力強く優を抱きしめて言う。


「ユウ、好きだよ。愛してる。ずっと大切にするから」

「……ありがとうございます。俺も、ランスさんのこと、その……好きです」

「ふふ。これからよろしくね」

「こ、こちらこそ……」


 見つめ合って、二人で笑った。

 まさか、こんなかたちで恋が成就するなんて思ってもみなかった。ある意味、ポーンは恋のキューピッド……天使なのかもしれない。

 ちょうどその時、玄関のベルが鳴った。勝手にドアを開ける音がして、中に入って来たのはポーンだった。片手にワインのボトルと紙袋を持っている。


「おふたりさん! 大丈夫かい……って、その様子じゃ、良い結果に転んだようだな!」

「っ……!」


 慌てて優はランスの腕の中から出た。ランスが呆れた顔をして言う。


「君、まさかすべて計算していたんじゃないだろうね?」

「そりゃするさ! いつまでも片思いしている両想いの奴らを見ているこっちの身にもなってくれよ!」

「まあ……今回はポーンのおかげもあるかもしれないけど」

「だろう? というわけで、今日は宴会だ! 良いカップルの誕生を祝して! これ、酒とつまみな!」


 手に持っていたものを嬉々と掲げるポーンに、ランスが呆れたように言う。


「まったく……今日はユウと二人っきりで過ごそうと思っていたのに」

「固いこと言うなって! ほらユウ、さっきのクッキー食べてなかったろ? 俺が開発したマシンで作った自信作なんだ! 食え食え!」

「クッキー製造マシン……」

「さあ、呑むぞ!」


 勝手にキッチンからグラスを取り出すポーンを見て、優は苦笑した。


「ごめんね、慌ただしくって」

「いえ……ポーンさんのおかげなのは事実ですし」

「……そうだね」


 言いながら、ランスは優の手を取って優しく握った。伝わる体温にどきりとしながら、優はランスを見上げる。


「さあ、僕たちも騒ごうか。今日は良い記念日になったしね」

「……はい!」


 恋人になった日。

 優はそれをカレンダーに書きたい衝動に駆られた。けれど、それは後だ。今は恋の天使の相手をしなければ。


「それじゃあ、カップル誕生にかんぱーい!」

「乾杯」

「……乾杯!」


 オレンジジュースを啜りながら、優は幸せを噛みしめた。


 ――ランスさん、ありがとう。俺を、選んでくれて本当に……。


 優はちらりとランスを見た。ばちり、と視線が合う。二人は微笑みあって、ポーンには内緒で、こっそりとテーブルの下で手を繋いでいた。

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