第8話、猫の絵
時間が流れるのは、とても早い。
優がこの世界に来て半月が経った。
ランスは納得のいくまでキャンバスに優の絵を描き続け、完成候補となるそれらは十枚を超えた。優はというと、タオル一枚でのモデルの役割にすっかり慣れてしまっていた。やはり脱ぐ時はまだ少し恥ずかしい。けれども、脱いで隠してしまえば後は横になっていれば良いだけだ。時間と共に羞恥心は薄れていく。
そして、ソファーの上でうとうとしてしまうのが優の日課になっていた。何時間も同じ体勢でいるということは体力を使うものだとランスが教えてくれた。眠ってしまったことを責めていた優にランスは「むしろ眠ってくれた方が描きやすいよ」と言い続け、今では優はその言葉を受け入れられるようになった。目を覚ました時はいつだって、心の中で「ごめんなさい」と呟いているのだが。
今日も優とランスはアトリエに居る。かれこれ三時間籠っているので、優はまた頭がぼんやりとしてきた。朝の十時から昼食も取らずに絵を描き続けるランスはずっと無言だ。もの凄い集中力で鉛筆をキャンバスに走らせている。しばらくすると、ランスは、かん、と鉛筆を机の上に勢い良く置いた。
「よしっ! これが一番良いかもしれない!」
ランスが大きな声を出して言った。その声で優の頭は一気にクリアになる。
「本当ですか?」
「ああ、これを着色しようと思うんだけど……どうかな?」
ランスはキャンバスを優に見せた。優は寝転んだままそれを眺める。そこには天使が――優が背中から羽を生やして木の枝の上で微睡んでいる様子が描かれていた。この構図の絵を何枚も優は見ていた。床に積まれているそれらがそうだ。優にはそれらと今見せられている絵の違いがまったく分からなかったが、描いたランスが言っているのだから微妙に違っているのだろう。「今までのと、どう違うんですか?」などとは聞けずに、優は笑顔を作ってランスに言った。
「ランスさんの納得のいくのが完成して良かったです」
その言葉に、ランスは目を輝かせて言った。
「ありがとう! けれど、まだまだ完成には遠いな。これから絵具を塗らなくちゃ……えっ? もうこんな時間かい? 優、十二時になったら言うようにいつも言っているだろう?」
困ったようにランスは眉を下げる。優は笑った。
「だって……ランスさん、凄い集中してましたから」
「それでも、言ってくれなくちゃ駄目だよ。ユウ、お腹が空いてるんじゃないのかい?」
「いいえ。俺はただ横になっているだけですから」
「……ユウは優しいね。よし、お昼の用意をしてくるからユウも服を着たらおいで」
「分かりました」
アトリエから足早に出て行くランスを見送って、優はいそいそと服を身に纏った。自分もアトリエから出る前に、もう一度ランスの絵を見る。穏やかな表情をしている天使を見て、思わず顔が赤くなった。
――俺、こんな顔してるんだ……。
もしくは、ランスには優のことがこう見えているのか。どちらにせよ、ランスの絵の腕は確かなものだ。優は、大きなキャンバスに触らないように注意しながら、そっと天使の羽を空中でなぞった。
***
「そう、そのままちぎってボールに入れて……」
「はい」
「そして、一枚ずつ水道水で洗うんだ。ささっとで良いよ」
「分かりました」
優はキッチンに立っていた。手には数枚の新鮮なレタス。それらをランスが言うように水でさっと洗っていく。水気をキッチンペーパーで切って皿に盛りつければ、簡単なサラダの完成だ。
「上手に出来たね。それじゃあ、ドレッシングを適量……」
「こ、このくらいですか?」
「良いね。完璧だよ」
優がランスに「料理を教えて欲しい」と言ったのは、この世界に来てから十日目のことだった。
――モデル以外でもランスさんの役に立ちたい。何かお手伝いがしたい……。
そう思ってのことだった。
ランスは優の真剣な思いに押され、料理を教えることを承諾した。怪我をしないようにと、まだ簡単なことしか手伝わせてもらえない優だが、少しでもランスの役に立てているということに心が弾んでいる。
「それじゃあ、いただきます!」
「いただきます」
今日の献立はパンと優が作ったレタスとドレッシングのサラダ。それにランスが作った鶏肉とトマトのスープだ。ランスの作る料理はどれも美味しくて、優の頬は自然に緩んでしまう。その様子を見て、ランスはいつだって嬉しそうに微笑むのだ。
「ユウ、この間買った塗り絵は進んでいる?」
パンを齧りながらランスが訊いた。優は「デート」のことを思い出し少し赤面しながら答える。
「はい。まだ途中なんですけど、楽しいです」
「何の動物を塗っているの?」
「猫です。一ページ目にあったので、それにしました」
「猫か……良いね。猫は描いていて楽しいよ」
その時、優は壁に飾ってある猫の絵のことを思い出した。もしかして、と思いランスに尋ねる。
「あの、壁に飾られている、猫の絵ありますよね? あれって、ランスさんが描いたものですか?」
「ああ、そう言えば飾りっぱなしになっているね。恥ずかしいな……あれは僕の初期の作品なんだ。売れなかったから家で飾っているんだよね……下手くそだろう?」
「そんなことないです! 俺、あの絵は凄い高いものなんだろうな……って」
「お世辞は良いよ」
ランスは苦笑する。
「初めて描いた猫の絵なんだ。動物自体、描くのが初めてだったなあ……」
「凄い。初めてであんな立派なものが描けたんですか? 毛並みがさらさらで、本当に生きているみたいでした。やっぱりランスさんは凄いなあ……」
「ありがとう……良かったら、ユウにプレゼントするよ。今よりずっと下手くそで恥ずかしいけれど、ユウになら貰って欲しいな」
「えっ、良いんですか!? 嬉しいです!」
「そんなに喜んでくれて……ありがとう。これからも精進するよ」
「こちらこそ、ありがとうございます!」
昼食を食べ終えた二人は、さっそく猫の絵を客間、つまり優の部屋に飾った。壁に釘を打ち、キャンバスが傾かないように調整しながらそれを引っ掛ける。
キャンバスから飛び出てきそうな猫に優は感動する。ランスは照れ臭そうに鼻を掻いた。
「それじゃ、これからのことなんだけれど……ユウは一旦、休憩ね」
「えっ? 俺、まだ疲れてませんよ!」
「そういう意味じゃないんだ……これから絵に下塗り用の絵具を塗るから、それが乾くまでは絵に触れないんだ。だから、今日はモデルの仕事はお終い。ゆっくりしてね」
「そうなんですか……分かりました。じゃあ、俺、塗り絵でもしてます」
「それが良いね。肩を凝らせない程度に頑張って?」
「はい」
優の頭を一撫でして、ランスは部屋から出て行った。優は撫でられた頭に無意識に触れてから、机に向かう。
この部屋には机と椅子、それからベッドと箪笥と姿見しか家具がない。本当に客人向けの部屋だ。ランスは「もっと家具を増やそう」と言ってくれたが、今はこれでこと足りる優はその申し出を丁寧に断った。住まわせてもらっているだけでも有難いのに、これ以上ランスに負担を掛けたくなかったのもある。
優は机の上の塗り絵のページを開いた。そこには写真のように描かれた猫の絵がプリントされている。その顔の部分にだけ、色鉛筆で塗った跡がある。優が塗ったものだ。椅子に座ったまま、首を回してランスの絵を見た優は溜息を吐いた。
――まだまだランスさんに追いつけないな……。
躍動感のあるランスの猫の絵に比べて、優の塗り絵はべたりと平面的だ。隣のページのお手本の塗り方を真似てみても、どうしてもこうなってしまう。
――ランスさんに、直接、教えてもらえたらな……。
図々しいことを考えてしまった自分が許せなくて、優は気合を入れてねずみ色の色鉛筆を右手で握った。今は、完成させることだけを考えよう、と。
しゃっ、しゃっ、と色鉛筆がページを染めていく。優は無心でお手本を見ながら手を進めた。
***
ドアをノックされる音が響いた。
「ユウ、入っても良い?」
「えっ、あ、はい!」
どれくらいそうしていただろうか。優は窓から外を見た。もう日が暮れている。優は時間の経つのも忘れて塗り絵に集中していた。
がちゃ、とドアを開けたランスが優の部屋に入って来る。そのまま優の隣へと長い足を進めた。
「ユウ、ずいぶん集中してたね……なるほど、グレーの毛並みに水色の瞳か。とても綺麗だよ」
机の上の塗り絵を覗きこみながらランスが言った。優は答える。
「……このページのお手本を見ながら塗りました」
「なるほど。良く出来ているよ」
その言葉に、優は俯いた。
――嘘だ。下手くそなのに……。
優は震える声でランスに言った。
「あの、本当のことを言って欲しいです」
「本当のこと?」
「評価して下さい。俺が塗ったやつ……」
「評価、か。うーん」
困ったようにランスは顎に手を置いた。しばらくそのまま、言葉を探すように何かを考えていたランスだったが、やがてゆっくりと口を開いた。
「そうだね……固い、かな」
「……固い?」
優はランスの目を見た。ランスは、優を安心させるように微笑んでいる。
「そう、固い。上手く描かなきゃって肩に力が入っちゃってる感じかな?」
「そう、ですか……」
「たとえば、この首の部分なんだけど」
「――っ」
――近い!
ランスは優の背後に回り、まるで背中から抱きしめるような体勢で、座っている優の手からねずみ色の色鉛筆を取った。右手同士が一瞬、触れ合う。かあっ、と優の頬が赤く染まった。そんな優に気が付かないのか、ランスは塗り絵を見つめて真剣な表情をしている。画家のスイッチが入ったようだ。
「こう、ふわっと力を入れずに塗ってみると……」
ランスは手首を固定したままで、優しくすっ、すっ、と手を動かした。
「……あ」
「ね? ちょっと生きてるって感じがしないかい?」
「確かに……お手本とは違うけど、柔らかい感じになりました」
「そうだね。ユウ、お手本も良いけど……僕はユウの見える世界が見たいんだ。だからお手本に捕らわれず、好きな色で好きなように塗ってみたら良い」
「好きなように……ですか」
「そう。肩の力を抜いて、ね? モデルの時みたいにリラックスして塗ってみたら良いと思うよ」
「……分かりました。アドバイス、ありがとうございます」
「ふふ。ほら、次は犬の塗り絵だね! ユウならどんな色に塗る?」
お手本の犬の色は黒い毛並みに黄色い瞳。でも……。
「俺だったら……茶色かな。大型犬が自由に……走り回る光景が頭に浮かんだから。瞳は黒色で……くりっとしてる感じで」
「良いね。そういう感じで進めていこう……ま、絵の話はこれくらいにして、もう七時だ。ご飯にしよう」
「分かりました。手伝います!」
「頼りにしているよ」
言いながら、ランスは優から離れた。そしてドアの方に向かう。慌てて優も立ち上がり、その背中を追った。
――近かった……。
高鳴る胸を抑えながら優はキッチンに向かう。今日の献立は何にするんだろう、と頭の片隅で考えてはいたが、その思考の半分以上はランスのことでいっぱいだった。
どきどき。
どきどき。
心臓の音が耳に響く。色鉛筆を渡した時に触れた右手が熱を持ってじんじんとした。
――俺、ランスさんのこと……。
嫌でも自覚してしまう。
自分はランスのことを親切な人、ではなく恋愛対象者として見てしまっていることに。
――駄目だ、駄目! ランスさんにとって俺はモデル! そう、ただの、モデル……。
ランスは優のことを「天使」だと言って褒め称えるが、それは外見だけのことだ。もっと、中身を……本当の自分を見て欲しいと優は思った。しかし、内面を知られて嫌われるくらいなら、今のままで良い、片思いのままで良いと思ってしまう自分も居る。
――恋って、難しいんだ……。
優は息を吐いた。大きな溜息は先を歩くランスに届いたらしい。彼は振り返って優を見た。
「ユウ、どうしたの?」
「いえ……お腹空いたなって……」
「ふふ。今日はキャベツとウインナーのスープだ。自信作だよ。実は……もう作ってあるんだ。だから、ユウはお皿に盛りつけてね」
「ありがとうございます……あの、俺、頑張ります!」
モデルも、恋も。
その言葉は口に出すことなく、胸の中にしまっておいた。
キッチンに辿り着くと、香ばしいコンソメの香りが鼻をくすぐった。昼から何も胃に入れていなかった優の腹がぐう、と鳴る。
優は腕まくりをして配膳に臨む。ひとつずつ、出来ることを増やしていこう。内面を磨いていこう。そして、ランスに認められよう――。優は、そう強く心に誓った。
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