第2話、目が覚めるとそこは異世界

「う……ん」


 優はゆっくりと瞼を開いた。どうやら他人の家の前で倒れていたようだ。ゆっくりと起き上がると、頭が痛んだ。ぶつけたというより揺さぶられた時のような痛みに顔をしかめる。


「えっ……どこ、ここ?」


 空は高く青く、先程までの雨が嘘のようだ。辺りを見回してみたが教会は見当たらない。それどころか、通って来たはずの建物がひとつも無い。建物の屋根はどれもカラフルで、ちょうど目に飛び込んで来たものの色は明るいオレンジ色をしている。壁は薄い茶色で、チョコレートみたいだ、と優は思った。その隣の家の屋根は黄色で、壁は白い。目の前の家よりも豪邸で庭が車が何台も停められそうなくらいの広さだった。


「な、何なんだ……」


 くしゅん、と優はくしゃみをひとつした。服が濡れている。きっと渦の中で濡れてしまったのだろう。皮膚も髪もびしょ濡れだった。


「寒い……それに……」


 お腹が空いた。

 こんな状況の中でも腹は減る。何か、食べるものを……。


 ――そうだ!


 優は胸のポケットに触れた。金貨があれば何か買うことが出来るだろう。しかし……。


「あれ? な、無い……!」


 優は渦の中から聞こえた声を思い出した。


「取引……」


 そう、声の主は金貨と引き換えに優を助けると言った。その結果がこれなのか? 見知らぬ土地に放り出され、右も左も分からない。優は目の前が真っ白になり、また気を失ってしまった。


***


「……君、大丈夫?」

「……う、うう……」


 また優が目を覚ますと、そこは外では無く室内だった。ふかふかのベッドの上に優は寝かされている。ああ、心地が良い……と優はまた目を閉じたが、慌ててもう一度目を見開いた。


「あ、あれ?」

「良かった、気が付いて」


 ベッドの傍らには背の高い男性が居た。髪は薄茶色で瞳は淡い緑色。どこか儚げのある印象だった。彼は手のひらを優の額に当てて言った。


「熱は無いみたいだね。良かった」

「あ、あの、俺……」

「大丈夫? 外で倒れていたから中に運んだのだけれど」


 言いながら男性は水の入ったグラスを優に渡した。躊躇いがちに優はそれを受け取ると、ゆっくりと水を飲む。冷たくて、とても美味しかった。


「あの、助けていただいてありがとうございます。貴方は……?」

「僕はランス。君は?」

「優です」

「よろしくね、ユウ」


 差し出された手のひらを握ると、そのあたたかさに涙が出そうになった。ここ数年、誰かに触れるということは優には縁のないことだったからだ。


 ――ああ、生きている。


 優はそのことを噛みしめた。同時に、今のこの状況を把握しようと頭をフル回転させた。渦に吸い込まれて、それから……見知らぬ家の前、つまりこの人の家の前に飛ばされてしまったのだ。こんな、まるでファンタジーみたいなことをこの人に説明しても信じてもらえるだろうか? うう、と唸ると、心配そうにランスが言った。


「難しい顔をしている。どこか痛むのかい?」

「いえ、そういうわけでは……」

「なら良かった。僕はね、牛乳を買いに外に出たんだ。そうしたらね、君がドアの前に倒れていた。驚いたよ。君のような人に出会えるなんて」

「ど、どういう意味ですか……?」

「そのままの意味だよ」


 言いながら、ランスは大きな手のひらを優の頬に当てた。どきり、と心臓が跳ねる。ランスの手は頬から髪に、髪から耳に動いた。


「ユウみたいに綺麗な人間を、僕は見たことが無い」

「き、綺麗?」

「自覚が無いのかな? ふふ。本当に綺麗だ」


 まるで顔のパーツを確かめるかのように、ランスは手を滑らせた。瞼、鼻、くちびる……。花を愛でるような手つきに、優は顔を真っ赤にして言った。


「ら、ランスさん。近いです!」

「ああ、ごめんね? こうして確認してしまうのが癖なんだ」


 どんな癖だよ、と思いながら優は息を吐いた。すっとランスが手を引っ込める。その動作に、優はなぜだか名残惜しさを抱いてしまった。


「ところで、君はどこから来たの? 見かけない顔だね……というか、僕が出不精なんだけれど」

「あ、あの、実は……」


 ああ、きっと信じてもらえないんだろうな……。そう思いながら口を開きかけた時、玄関の呼び鈴が大きな音を立てた。


「誰だろう? ちょっと待っててね」

「あ、はい……」


 室内にひとり取り残された優は、改めて自分の服装を見た。だぼだぼのシャツを着せられていて、遠くで、ごうごうとマシンの動く音がしていることから、きっとランスが洗濯機で洗ってくれているのだろう。今着ているのは……おそらくランスの服。同性なのに、裸を見られたことに気恥ずかしくなった。こっそりとにおいを嗅いでみると、知らない洗剤の香りがする。


「だから、男の子がここに居るだろう!?」


 玄関の方で声がする。

 この声は……!

 聞き覚えのある声に、優はベッドから抜け出して声の方に向かった。


「居るけれど、それが君に何の関係がある?」

「関係大アリだよ! 何しろあの子は俺が呼んだんだから!」

「呼んだって君、また魔術を使ったのかい!?」

「もちろん! これも人助けってやつさ!」

「まったく……」

「ああ! そう、その子だ!」

「えっ?」


 ひょっこりと廊下から顔を出す優を見つけて、あの渦の中の声の主は嬉しそうに笑った。年はランスと同じくらいで、赤毛に水色の瞳をしている。彼もランスに負けず劣らず整った顔立ちだ。

 彼は目を細めると、優に向かって手招きした。どうしようか悩んだが、優はそれに従うことにした。彼は優が傍に来ると、ぎゅう、っと固く優を抱きしめた。


「良かった! いやあ、ちょっと落とす場所の計算を間違えてしまって! 俺の家の隣、つまりこいつの家に落としちまったんだよ!」

「隣って、あの豪邸ですか?」

「豪邸って言う程でもないさ。中は散らかり放題だし!」

「そうだ、ポーンの家はいつ行っても汚いね。さあ、もういいだろう。その子を離したまえ」


 強引にポーンの抱擁を解いて不機嫌そうにランスが言う。ランスは腕の中に優をすっぽりと包んだ。優は戸惑う。こうやって抱きしめられるのも、もう何年も経験していないのだ。先ほど嗅いだのと同じ匂いが優の鼻に届いた。


「ユウ。ポーンの魔術の犠牲になったんだね。可哀そうに。すぐに元の世界に戻れるようにさせるからね」

「あ、違います俺……その人、ポーンさんと取引したんです」

「取引?」


 ランスはポーンを睨んだ。


「君、ろくでも無いことをユウに言ったんじゃないだろうね?」

「心外だな。ほら、俺たちの取引内容はこれさ!」


 言いながらポーンはポケットから金貨を取り出してランスに見せた。それはまさしく優が持っていた金貨だった。


「これと引き換えに、俺はこの子を助けたってわけさ」

「助けた? ユウ、何か困ったことがあったのかい?」


 ランスは優に優しく問いかけた。優は困る。どう説明すれば良いのだろう……。

 だが、優が説明するよりも先に、ポーンが口を開いた。


「その子は……ユウって呼ばせてもらうぜ! ユウは、家を家族に追い出されたのさ。行く当ても無くさ迷っていたところを俺が見つけて取引しようって持ちかけたんだよ」

「追い出されただって!? どういうことだい?」

「それは……俺が、出来損ないだからです」


 優は下を向いて答えた。もう、言うしかない。せっかく親切にしてもらったのに、嫌われてしまう……。

 けれど仕方ない。ポーンの言動からするに、彼はすべて知っているのだろう。優は腹を括った。


「俺、オメガなんです。だから追い出されました。出来損ないだって、ずっと言われてて……」

「なんだって……?」


 ランスは驚いて目を丸くした。ポーンも難しい顔をして腕を組んでいる。


 ――ああ、二人に嫌われてしまった……。


 優はランスの腕から抜け出し、二人に深々と頭を下げた。


「あの、俺、気持ち悪いですよね。すみませんでした。すぐに出て行きますんで、あの、せめて服が乾くまではここに置いてもらえないでしょうか?」


 そう言った優に、二人はぽかんと口を開けたまま固まった。ランスが慌てて言う。


「ユウ、何でそんな悲しいことを言うんだい?」

「すみません……だって、俺、オメガだから……家族の中で、俺だけが異質なんです。皆、オメガのことが……嫌でしょう? だから俺……」

「待って、ユウ。誰もユウのことを気持ち悪いだなんて思ったりしないよ?」


 同情は要らない。

 優は涙で滲む視界でランスを見た。しかし、自分に向けられているその目は同情しているわけでも、嘘を吐いているわけでも無い、まっすぐな瞳だった。


「確かに、オメガの人は冷遇されてきた。けれど、それは昔の話だ。今ではオメガの人もベータの人もアルファの人も、皆、平等に生きているんだよ?」

「……平等」

「そう、だから僕はユウのことを変に思ったりなんかしない。約束する」

「……本当?」

「本当だ」


 ポーンが腕を組んだまま口を開く。


「ユウ、君が居た世界は、この国よりずっと遅れているんだな」


 ポーンの瞳にも嘘の気配は無い。優は身体の力が抜けてしまい、床に座り込んだ。


「そうなんですか……? じゃあ、俺、生きていても良いの?」

「もちろんだよユウ。僕は君に生きて欲しいよ。この世界で、ずっと」


 もう一度、ランスが優を抱きしめる。優は涙を流した。こんな世界があるなんて信じられない。けれど、これは現実なのだ。この世界に生まれていたら、自分の人生は違ったものになっていたかもしれない……優は、自分の存在を認めてもらえたことに心を震わせた。

 ランスの大きな手が、優の背中を撫でる。優は泣きつかれて眠るまで、ランスのぬくもりをずっと感じていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る