キャンバスの中で天使は微睡む

水鳥ざくろ

第1話、一枚の金貨と天の声

 優はその日、家を追い出された。

 十八歳の誕生日。どうせ誰にも祝われることなんて無いと分かっていた。けれど、まさか「出て行け」と両親に告げられて、着の身着のまま、屋敷をまるで箒で埃を掃うかのように簡単に追放されるなんて思ってもみなかった。


「父さん、母さん……どうしたの? 俺、何かした?」

「黙れ。出来損ない。お前はこの家の恥だ」

「十八歳まで置いてあげたんだから感謝してほしいわ」

「出来損ないって……確かに俺は……」

「黙れ! お前の話など聞きたくもない! さっさと出て行け! 竹田、優を外に連れ出せ!」

「……畏まりました」


 使用人の竹田が優の腕を引っ張って外に連れ出した。優は無駄だと分かっていても反抗する。


「父さん! 母さん!」


 そう叫ぶ優に目もくれず、両親は背を向けて部屋の中へと消えて行った。深い絶望が優を襲う。

 ――そんな、俺がいったい何をしたって言うんだ……。

 門の前に優を連れ出した竹田は、悲しげに目を細めて言った。


「お坊ちゃま、お気の毒ですが私にはどうすることも出来ません……」

「ああ……いったい俺はどうすれば……俺が、出来損ないだからか……」

「お坊ちゃまは出来損ないなどではありませんよ。私が一番良く知っております」

「竹田……」

「そうだ、お坊ちゃま。これを……」


 竹田は胸のポケットから一枚の金貨を取り出して、優の手に握らせた。冷たいそれは重く感じ、優の手のひらで無機質な存在感を放った。


「何の足しにもならないかと思いますが……どうかご無事で……」

「金貨……この国では金貨は身を守るお守りだもんな……ありがとう竹田。どうにか……どうにか生き延びてみせるよ」

「坊ちゃま……どうかお元気で……」


 当ても無く優はふらふらと歩き出した。履いている靴はもう三年も前に買ってもらったものだ。靴底はすり減り、もう外を歩くのには適していない。


 ――これからどうすれば良い?

 

 役所にでも行けば良いだろうか。何か助けがあるかもしれない。

 けれど、何て説明すれば良いのだろう? 両親に家を追い出されました。助けて下さい、と説明すれば良いのだろうか。どうして追い出されたのですか? と向こうは訊いて来るだろう。その時は……自分のことを包み隠さず説明しなければならない。その時、役所の人はどんな顔をするだろう。憐みの目でみられるのだろうか、それとも両親同様「出来損ない」と嘲笑うのだろうか。

 優は背筋に冷たいものが走るのを感じた。自分をさらけ出すのは、怖い。自分が――オメガであるということを誰かに言うのは勇気がいる。オメガは最下層の扱いを受けるからだ。定期的に訪れるヒート……発情期。そのことを良いように思っていない人が大半なのだ。

 オメガ、ベータ、アルファ。

 男女の他にこの三つの性がこの世には存在している。

 アルファはいわば天上の人。優の両親もそうだ。彼らは財閥を築き、世の中で成功者として崇められている。ベータは人口の半分以上を占める一般的な性。そして、オメガは……もっとも劣るとされる性。

 どうしてアルファ同士の両親から、オメガが生まれてしまったのだろう。それは優にも分からない。低い確率で起こることだと医者は言っていた。そのことを優の両親は恥じだと言い、優は誰の目にも入らぬよう、屋敷の中で極秘に育てられた。学校には小学校までしか通えず、それからの必要最低限の教育は竹田に面倒を見てもらいながら、十八歳を迎えたのだ。

 頼れる友達も居ない。しかも外に出るのはバース性が判明して以来だ。バース性は小学六年生の時に検査で判明する。それまでは「普通」の生活が出来ていた。

 街は数年の間に姿を変え、優が知っている街並みは無くなっていた。役所の場所も分からない。バスの乗り方も分からない。


 ――どうしよう。


 優はポケットの中の金貨を握りしめた。最悪なことに、ぽつりぽつりと雨が降り出し優の身体を濡らす。優は慌てて記憶を辿った。たしか、この道の先に教会があったはずだ。教会なら移転したり潰れたりしていないだろう。そう考えた優は自分が出せる最速の速さで教会まで走った。ずっと屋敷から出ていない身体はすぐに息を切らしたが、そんなことを気にしていられない。今の自分には着替える服も無いのだ。優は必死になって走った。

 教会に辿り着くと、優は膝に手を付いて息を整えた。ぜえぜえ、と息をする度に肺が痛む。こんなに走ったのはいつぶりだろうか。小学校の時の運動会を思い出す。あの頃は両親も優しかった。きっと我が子が優秀なアルファだと確信していたんだろう。ああ、あの頃に戻りたい……。

 ぽろり、と優の頬を涙が伝った。


 教会は無人だった。

 優は傍の椅子に腰掛けて、目の前の神様をぼんやりと眺めた。神様は俺を救ってくれるだろうか、なんてことを考える。

 雨は本降りになり、ざあざあという強い音が入口から聞こえてきた。もう外に出ることは不可能だ。さて、どうしたものか……。

 優はポケットから金貨を取り出して、両手でぎゅっと握った。


 ――助けて下さい。


 この国では、胸のポケットに一枚金貨を入れておくことが風習となっている。困った時、金貨が幸福を運んでくれるというものだ。優がオメガと分かった時に金貨は取り上げられてしまったので、こうやって金貨に触れるのは久しぶりのことだった。優は、冷たく固い感触を確かめるように丁寧にそれを手のひらで包んだ。


「はあ……金貨が俺を救ってくれるなら安いものだな」


 優はひとり呟く。

 竹田がくれたこの金貨は、いったいどの程度の価値があるのだろう。ひとりで買い物に行ったことのない優には分からなかった。


「神様……」


 その時だった。

 ごう、と教会の天井が唸る。優はそこを見上げると、大きな雲が渦を巻いていた。灰色の太い雲が、渦潮のように天井を取り巻いている。


「た、竜巻……!」


 優は咄嗟に立ち上がった。大切な金貨を胸のポケットに戻して、天井を見上げたまま後ずさる。しかし妙だ。竜巻なら教会の天井をとっくに吹っ飛ばしているだろう。それなのに竜巻は教会の中で、しかも何も壊すことなく、ただ静かにそこに存在していた。


「な、何なんだ……?」


 そう漏らす優の耳に、楽しげな笑い声が響いた。


「ふふ。君、ずいぶん困っているようだね」

「だ、誰!?」


 優は振り返るが、誰も居ない。そう、その声は天井の竜巻の中から聞こえてきたのだ。優は驚きのあまり硬直してしまった。これは、夢? それともゴーストの類なのだろうか?

 渦の中の声は、大きく教会に響いた。


「助けてあげようか?」

「た、助ける?」

「そう。その金貨と引き換えに、俺が君を助けてあげよう。どう? 良い取引だと思わない?」

「貴方は、いったい誰なんですか!?」


 優は渦の中心に向かって叫んだ。声はまた楽しそうに笑った。


「いずれ分かるさ。それよりどう? 取引する?」

「それは……」


 助けてもらえる。この金貨さえ渡してしまえば。しかし、金貨を手放すことに優は躊躇った。これは全財産だ。そう簡単に渡してしまったら一文無しになってしまう。けど……今の、この状況を打破できるなら……。


「本当に助けてくれるの?」

「もちろん。俺は嘘は吐かないよ」

「じゃあ……取引する。この金貨を貴方にあげます!」

「交渉成立だね! じゃあ、一名様、ご案内!」

「えっ? う、うわあああ!!」


 途端に優の身体は宙に浮き、渦の中心に吸い込まれていった。


「た、助けて!」

「だから、君を助けるんだってば!」

「うわあああああ!!」


 優の身体はあっという間に渦の中に消えた。

 意識が途切れる前に見た景色は、何事もなかったかのように静かな、教会の室内だった。

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