第4話

 まだ昼休みはかろうじて続いている。最後の死力を尽して、明朗は走った。明朗の頭は、からっぽだ。はじめから何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。ぷっ、と放送音が鳴り、終了のチャイムの音がそれに続いた。聞きなれたメロディの、まさに最後の一片の音色も、消えようとした時、明朗は疾風の如く職員室に突入した。間に合った。

 「先生、イチゴサンドを手に入れました。約束の通り、先生のためにイチゴサンドをここに持ってきました!」と大声で職員室にいるイケメンにむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、イケメンは、明朗の到着に気がつかない。

 それどころか、芹輝がイケメンの座席の前で、なにやら説教を受けているようだった。明朗はそれを目撃して最後の勇、先刻、群衆を泳いだように体育教師の激しい注意から身をかわし、「僕だ、先生! 廊下に立たされるのは、僕だ。明朗だ。芹輝を人質にした僕は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついにイケメンと芹輝の前に立ち、真顔のイケメンと、同じく真顔の芹輝の肩を揺さぶった。

 「芹輝。」明朗は眼に涙を浮べて言った。「僕を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。僕は、実は限定フィギュアなんて持ってはいない。君があれほど欲しがっていた限定フィギュアは持っていないんだ。僕は君の気持ちを理解していなかったんだ。君が若し僕を殴ってくれなかったら、僕は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」

 芹輝は、察した様子でうなずき、控えめに、ぺちんとメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑んだ。

「明朗、僕を殴れ。痛いのは嫌だから、ぺちんと僕の頬を殴れ。僕はこの数か月、ずっと、限定フィギュアのことだけを考えていた。しかし、君が考えていることなど、僕は同じようには考えていなかった。僕だって、君と同じように、自分のことばかりを考えていた。君が僕を殴ってくれなければ、僕は君と抱擁できない。」

 明朗はてのひらを緩やかに芹輝の頬へと持っていった。

 「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ぴったりと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。

 イケメンは、二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かになると、二人に対して気さくな笑顔でこう言った。

「君たちの望みが叶ったね。君たちの心は、立派に成長している。心の成長とは、決して目に見えないものではなかった。できれば、このまま自分たちの思うように生きてみてほしい。できれば、君たちの、そういった姿を、僕は近くで見ていたいと思う。」

 どっと職員室の中で、歓声が起った。


 明朗は、廊下の窓辺でたそがれることにした。自分は一つ成長を経た人間であると、信じながら。誰かが、今の自分をみていてくれたら。……誰かが、自分のことを大人な姿であると思ってくれないだろうか、などと考えた。

 しかし、窓枠には毛虫が這っており、それを見てしまった明朗は幼い子供のような声で驚いてしまった。危うく、イケメンから借りたコーヒーカップを落としそうになり、もはや大人のかけらもないことを残念に思った。

 窓辺にたつと、コーヒーカップから湯気がたっているのがよくわかった。それは、冬の寒さを思わせた。明朗の体温は、最近上がりっぱなしで、寒いなんて感じることは全くなかったのである。

 目を閉じると、放課後の音がきこえる。遠くから、吹奏楽部の演奏や、サッカー部の掛け声が、響いてくる。なぜか、それらが明朗にとって懐かしく思えた。そして、いきいきと活動する自分の姿を想像した。乾ききった冬の空気の中で、明朗の瞳は潤んでいた。

「どこに行ったのかと思ったら」

 背後から、イケメンに声をかけられて、カップを持ち換えた。自分よりもずっと背の高い姿を目の前にして、明朗は背伸びをしようとした。だが、彼はすぐにそうするのをやめた。

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