第3話 城址公園
最近、歴史ブームということもあってか、城址というところは、結構整備されるようになってきた。
「城址公園」
などと言われ、遺構であったり、復元されることも多く、世の中では、その発掘調査も頻繁に行われるようになってきた。
実際に、最近の歴史では、
「今まで言われてきた真実なるものが、実際には、間違っていた」
などということが頻繁に言われるようになってきたのである。
特に、
「教科書に載ってきたことが、今までの当たり前と言われていたものが、当たり前ではない」
と言われるようになってきたのである。
よく言われているのが、
「肖像画とされてきた人物が、実は別人だった」
などということで、教科書から、その肖像画が消えていくということが当たり前のようになってきている。
たとえば、昔の一万円札で有名な、
「聖徳太子」
などは、肖像画どころか、その名前すらも、
「時代考証上あっていない」
ということで、今では別の名前で呼ばれている。
それは、
「馬宿で生まれたから」
ということで、
「厩戸皇子」
と言われたことから、教科書などでは、
「厩戸王」
と言われるようになっている。
さらに、武家政治における最初の、
「征夷大将軍」
となり、幕府を開いた源頼朝の肖像画も、別人だと言われている。ちなみに、最初の征夷大将軍というのは、武士が出てくる前の平安初期の、
「坂上田村麻呂」
という人物である。
今では、その肖像画というものを、
「伝源頼朝像」
と言われるようになっているということである。
そういう意味で、昔から伝わっていて、当然のように、教科書に載ってきた人の肖像画がまったく消えてなくなるということも多かったりする。
実際には、
「別人だ」
と言われる人として、
「足利尊氏」
「武田信玄」
「西郷隆盛」
と、結構たくさんいたりするのだ。
さらに、歴史見解という意味で、今ではそれまでと違ったものとしては、
「いいくにつくろう」
といって覚えさせられた
「鎌倉幕府成立の年」
というものである。
今までは、
「頼朝が、征夷大将軍になった時」
ということで。1192年とされてきた。
しかし、歴史見解として、幕
「府機能の基礎が全国にできた」
ということで、
「守護と地頭というものを、各地においた」
ということで、1185年が有力だと言われるようになっていて、その説が今では一番有力になっているのである。
これは、弟の義経追討というのを、名目として、頼朝が、朝廷に変わって、全国を支配することを、
「義経追討」
を大義名分とすることで朝廷に認めさせたというだけでも、その理屈は、十分であるということになるだろう。
さらには、発掘作業が進んでくることで、発見されたりすたものから、
「これまでの歴史が間違っていた」
ということもたくさん出てくる。
古代の遺跡であったり、お城の存在であったり、歴史の事件や戦争というものが、言われていたことと、辻褄が合っていなかったりということで、歴史がいかに大きな転換期を迎えているかということが、最近では大きな問題となっているだろう。
何といっても、
「科学技術の発展や、DNA鑑定などから、今まで分からなかったことが、どんどん事実として分かってくるようになると、今まで歴史に興味のなかった人が、どんどん歴史に興味を持つようになっているというものだ」
特に、ここ十数年くらいの間に、
女性のファンが増えてきたというのも、新たな進展といってもいいだろう。
「歴女」
などという言葉も出てきて、特に戦国時代、幕末などのファンがたくさん出てくる。
それは、女性に限らず、
「子供にも言える」
ということであった。
その一番の大きな理由というのは、
「ゲームの影響」
というのが大きいであろう。
特に、戦国武将をテーマにした、いわゆる、
「国取り物語」
といってもいいような、
「群雄割拠の戦国時代」
というものが、かっこよく描かれているのである。
特に、マンガのキャラクターとしての、戦国武将というものが、
「イケメン」
ということで、戦国時代の歴史がどんどん格好良くなってくることで、女性ファンがついてきて、さらに、
「引きこもり」
というのが増えてきたことで、子供のゲームをする人が、歴史に興味を持つということである。
そういう意味では、
「学校に行っている連中よりも、引きこもっている連中の方が、歴史に関しては、知識が深い」
といってもいいかも知れない。
ただ、それは、
「ゲームでのストーリーが本当の史実と言われていることと同じかどうかは定かではないだろう」
といえる。
何といっても、ゲームなのだから、
「面白おかしく書かれている」
といってもいいだろう。
つまりは、
「歴史小説ではなく、時代小説だ」
ということになるだろう。
よく似たこの二つの言葉、
「似て非なるもの」
であり、同じであるわけもなく、それぞれに存在するだけの理由がちゃんとあるわけで、それが、
「歴史の真実」
というものに、結びついてくるのかも知れない。
そんな歴史が好きになった人がいる反面、整備されてきた城址公園は、夜ともなると、
「カップルのたまり場」
というような感じになってきている。
車で駐車場に留めるのは、ある程度の時間以降は難しいようで。営業時間が過ぎると、駐車場は、閉鎖されるというところが多くなっていた。
昔であれば、城址公園の駐車場というと、カップルが車を止めて、、イチャイチャするにはちょうどよかったのだろうが、今ではそうもいかなくなっている。
当然、防犯という意味からなのだろうが、城址公園くらいになると、駐車場は一か所ではなかったりする。
というのも、お城というのは、天守だけではないといえるだろう。
よく、昔から、
「お城というと、天守」
という風に思い浮かべる人がほとんどで、
「天守が燃えてなくなっていたりすれば、そこは、ただの城址」
というだけで、公園でしかないと思っている人も多いことだろう。
しかし、
「城というのは、天守だけではない」
というのも、
「燃え尽きた天守」
というだけではなく、それどころか、
「最初から天守のない城」
などというのは、ものすごくたくさんあるというものだ。
「全国にあったであろうと言われた城の数」
というのは、
「コンビニの数よりも多い」
と言われている。
というのは、お城というのは、元々は、
「敵の攻撃からの防衛」
ということであり、歴史的には、武士の時代になってからの、鎌倉時代以降から、江戸時代初期に建造されたものがほとんどである。
ただ、その間に作られた城の様相は、かなり変わってきたといってもいいだろう。
鎌倉時代から、損極時代の後期くらいまでは、基本的に城というと、
「山城」
と、ある程度相場が決まっていた。
敵から攻められた時、麓には大名屋敷があり、そこから山の上に登って、籠城するというのが、基本的な戦ということになるだろう。
だから、山の上に築かれたものは、、砦のようなもので、コンクリートの塀のようなもので守られたり、濠や、石垣のようなものがあるわけではないので、その防衛方法も、山之上からの攻撃でないと不利だったということであろう。
そのうちに、櫓と、物見やぐらとが一緒になった、複合の多重櫓が、そのまま天守になったといってもいいだろう。
そして、城の周りには、たくさんの櫓や、物見の櫓が建っていて、そこから攻撃できる工夫をいかに張り巡らせるかということで、
「難攻不落かどうか?」
が決まるのであった。
天守というのは、一番先にできたと言われているのは、
「大和の国あたりの大名であった、松永久秀の信貴山などの城だった」
というウワサもあれば、
「織田信長の安土城」
という話もある。
また、最近の発見としては、
「伊丹にあった、荒木村重の有岡城」
というところに、天守があったというウワサもあったりする。
とにかく、少なくとも、信長が勢力を伸ばしているくらいから、天守が出現したというのは間違いないよで。最初は、あくまでも、天守というと、それこそ、
「最後の砦だった」
といってもいいだろう。
そして、その頃からお城というと、山城から、
「平山城」
であったり、
「平城」
ということに変わってきた。
それは、城のまわりに、石垣を築いたり、濠を張り巡らせた入りという工夫ができるようになったからである。
元々は、山城のまわりにある断崖絶壁などが、
「天然の要塞」
などと言われるようになっていたのだが、それが、
「近くを流れる川」
などを濠の代わりにすることで、こちらも
「天然の要塞」
ということで出来上がった城として機能するのであった。
そもそも、戦国時代の山城というのは、出城というものがなければ、なかなか成り立たないといってもいいだろう。
本城があって、そのまわりに支城と呼ばれるものがあり、基本的には。
「支城を落としていって、次第に、本城に迫ってくる」
ということになったであろう。
そうでもしないと、先に本城を攻めようものなら、
「本城を囲むようになって築かれている支城から、出張ってきて、挟み撃ちにされる」
ということになったかも知れない。
しかし、中には頭のいい武将がいたら、今度はそれを逆手にとって、
「最初に突っ込ませた部隊は囮であり、そちらに集中しているところに、後ろから気づかれる前に襲い掛かって、逆に挟み撃ちにする」
ということを考えた人もいるだろう。
似たような戦法として、
「薩摩の島津」
の戦法としての、
「釣り野伏」
と呼ばれるように、囮部隊を使って、相手を引き付けておいて殲滅するという方法を取っているところもあったのだ。
あるいは、
「失敗した」
ということであるが、
「第四次川中島合戦」
において、武田信玄の軍師であった、山本勘助が考案したとされる、
「キツツキ戦術」
というのも、似たようなものであった。
さすがに、一つの部隊を囮にするということは、一歩間違えれば、その部隊は全滅する危険性があり、そもそも、
「寡兵であることで用いられる戦法なので、全滅は敗北を意味する」
といってもいいだろう。
それを考えると、
「一か八かの戦術」
ということで、よほどの自信であったり、普段からの統制のとれた部隊ということでないと、一気に相手に襲い掛かられて終わってしまうということになるだろう。
少なくとも、正攻法ではないのだから、奇襲作戦ということであり、奇襲というのも、それだけの力と自信がなければ、無謀な作戦ということにしかならないだろう。
それを思うと、
「籠城戦」
というのは、実に紙一重というものであるが、攻める方も、実は大変である。
相手は、要塞を築いているのだから、襲い掛かるというのは、相手の無数の罠を切りぬけなければならないというわけで、
「攻城戦というものは、籠城戦に比べて、3倍の人数を必要とする」
と言われている。
しかし、そのうちに、攻める方として、
「兵糧攻め」
「水攻め」
などと言った、
「相手を追い詰めることで、攻める方は待っていればいい」
という作戦が取られるようになっていくのであった。
そんなお城には、天守の周りには、
「本丸」
を中心に、
「二の丸」
「三の丸」
などという、いろいろな場所があり、そこが、家臣の屋敷であったり、食料の倉庫であったりと、いろいろである
城の一番大きなまわりを、
「総構え」
といい、そこから中を、
「城内」
といえるだろう。
その城内のまわりには、水堀が施されていて、そこから門に掛けては、大きな橋が架けられているといってもいい。そして、そんな大きな門が、いくつもある状態から、逆に、城に入るには、その門を通らなければいけないということになるのだ。
「大手門」
であったり、
「追手門」
という門だったりする。さらには、その門が、櫓の役目をするように、門自体から、鉄砲などの弾が飛んでくるという仕掛けだったりする。
さらには、門の横から、細長いコンクリートの塀のようなものに、三角形や、四角形などと言った、鉄砲の穴が開いていて、そこからも鉄砲が連射されるという、
「渡し廊下」
と、
「塀」
という二つの役目をするという、
「多門櫓」
と呼ばれるところもある。
攻城側は、門を突破すると、そこから、どんどん城の中に侵入していくわけだが、sこからが、籠城側の腕の見せ所というべきか、
「城を守るための工夫が施されている」
といえるだろう。
特に、途中の階段であるが、それほど急になってないところが多かったりするという。
それは、規則正しい道にせずに、わざわざ走りぬけるには、足元を気にしておかないといけない仕掛けにしている。
そうすることで、攻城側は、足元も気にしながら、前からの攻撃に備えなければいけない。
それをいかに突破するかということは問題なのであった。
また、門を超えてから、その先に、小さなまわりを塀に囲まれたという、
「枡形小口」
と言われるところがあり、そこに迷い込むと、それこそ、「まわりから、
「ハチの巣にされる」
ということで、兵の数が多ければ多いほど、身動きが取れず、相手は狙うことなく、一網打尽で、すべてを砲撃し、皆殺しとして、
「なぶり殺し」
という恐ろしい状況に陥るのであった。
さらに、城の中に入っていくにしたがって、狭くなっていったり、天井が低くなっていく。
これも、相手が侵入しにくいようにしているのであった。
さらには、中に橋が架かっているとして、そこに敵兵が入り込んでくれば、その橋を壊すことで、相手を奈落の底に叩き落すこともできるというものである。
つまり、
「進軍すればするほど、攻城が難しくなり、兵の損失も激しくなる」
ということである。
「攻城側は、籠城側の三倍の兵員が必要だ」
と言われるのは、この辺りが、大きな問題なのである。
それを考えると、
「城の設計をする人というのは、今でいうところの建築士に匹敵する天才ではないだろうか?」
ということである。
今の時代で残っている城も、一つの県だけであっても、かなりの数になるという。
特に、
「ほとんどの城に、同じものはない」
といってもいいように、いろいろな仕掛けが作られていることになるのだ。
それは、
「築城の盟主」
と言われる人がいて、莫大な数の城を設計した人であっても同じことで、たくさんの城を組み立てているが、同じ仕掛けを施すようなことはしないであろう。
というのも、
「今度敵対する大名の城が、同じ設計者によって築かれた」
ということであれば、
「相手には、この城と同じ仕掛けだということが分かっているので、攻めてくる方が有利であるに決まっている」
ということになり、丸裸にされたも同然ということであろう。
そういえば、昔聞いた話では、
「城を完成させた殿様は、その建築に携わった工夫たちを招いて、打ち上げのようなものをしようと誘うというが、実際には、建てた人たちを、残らず、毒殺した」
ということを聞いたことがあった。
それもそうである、
「敵対する相手に攻め込まれ、抜け穴までも相手に筒抜けになってしまえば、せっかくの難攻不落と言われる城であっても、内部構造が分かってしまえば、攻略も簡単であり、城の役目になっていない」
ということになるであろう。
そんなお城は、落城すると、すべてが、なくなってしまう。
勝者は、その土地を支配し、家臣に褒美として分け与える。
その城をそのまま使う場合もあるが、取り壊して作り直す場合もある。
作り直す時は、取り壊した城の材料を使って、立て直すということが多く行われる。そうなると、短期間で建てることができるというものだ。
例えば、
「小谷城の遺構を使われてできたのが、長浜城」
であったり、
「佐和山城の遺構の場合は、彦根城に使われる」
ということであった。
そもそも、戦国時代の山城であれば、基本的に、使わなくなったところは、
「取りつぶして、別の城を作る」
ということが多く行われていたのであった。
そういう意味で、どんどん新しい城を、他と同じように作らないという工夫をしながら作る必要があったのだ。
お城の総構えから、濠であったり、櫓などの設計」
というものを、
「縄張り」
という、今復興されたお城などというのは、昔の縄張り図が残っているところは、それを見て復興できるが、
「戦争による空襲」
であったり、さらに昔の戦などで、例えば、
「松永久秀の信貴山城」
であったり、
「柴田勝家の北庄城」
などでは、最後に、
「敗軍の将」
が自害をし、さらに、
「首を相手に与えないため」
ということで、天守に火をつけるというやり方で、城自体が燃え落ちるということもあるだろう。
大阪の陣のように、徳川方が大阪城の天守に、火をつけるということも行われ、
「相手の遺構を、まったく残さないようにする」
ということも行われたりするのであった。
そのせいで、
「縄張り図が、全く残っていない」
ということで、想像で再建された天守もあることになるのだ。
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