伏魔殿【一】

 味方のほとんどいない青龍国への帰還。こっそりと戻ったところで、暗殺者を差し向けられ、秘密裏に処理されてしまう可能性が高かった。

 ではどうするか。答えは簡単で、逆に大手を振って帰ることにした。

「あれでいて、青龍王家の人間は、外面そとづらがいい。第五王子の私の不在を、他国への遊学だとごまかしているのだ」

 国民は紫嵐に悪感情を抱いておらず、むしろ幼い頃に母親を亡くした美しい王子のことを、同情的に見ている。ひとりひとりは力を持たぬ彼らだが、ひとつにまとまればそれは、世論を形成して紫嵐の後ろ盾になってくれる。

 久しぶりに帰国し、元気な姿を人々の前に現していた紫嵐が王宮内で急死したとなれば、疑念を抱く。噂は人の口を経るごと真実へと変わっていく。敵側もそれを知っているから、王宮内では紫嵐の身に危険は及ばないという計算であった。

 朱雀国を出国する前に、朱倫に頼んで青龍国へと文書で通知を送ってやった。次期女王、そして黄王の巫女である彼女からの手紙は、効力を発揮する。

「もうねぇ、張り切って書いてあげたわよ。感謝なさい」

 挨拶に行ったときに、朱倫はにやにやと笑っていた。文面を確認させてもらえなかった紫嵐の顔は、やや引きつっていた。

「お前、何を書いた?」

「別に? 第五王子殿下は黄王陛下直々に、青龍国での任務を命じられていらっしゃいます。彼の力になってさしあげてくださいませ、って。本当のことじゃない」

 ねぇ? と同意を求められた琥珀も、愛想笑いを返すしかできなかった。

 旅の乗り物も、馬を使っていた白虎国~玄武国の間とは違い、馬車を使った。朱雀国の紋章が入った、王家の馬車を貸してくれた。屈強な護衛も何人か。朱倫の大盤振る舞いに感謝するとともに、ここまで好き勝手にできる朱雀国の体制にも引いた。おそらく燦里のような信奉者たちに支えられているのだろう。彼女たちが幸せならば、部外者の自分があれこれ言うべきことではない。

「あ、紫嵐」

 主役は遅れてやってくるものだという。これまでの旅の中で、一番のんびりしている。無理をせずにひとつひとつの街で停車して、紫嵐の健在を印象づける。国境沿いの街には、青龍族も少数ながら暮らしており、彼らから祖国の親族へと噂が広まったところで入国する予定になっている。もちろん、青龍国内も鈍行だ。

 朱雀国ではこの街が最後になる。今日はここで宿泊し、明日はいよいよ青龍国だ。

 帰国を決めてから、紫嵐はふらりとひとりでどこかへ行ってしまうことが増えた。物思いにふけるその姿を見ると、胸がぎゅっと苦しくなる。たったひとりの伴侶であるにも関わらず、琥珀は彼の支えになることができていない。

 いつもはそっとしておいてほしいのだろうと気を遣い、声をかけないのだが、明日にはいよいよ敵国へと向かうとなると、今日はどうしても話をしなければならなかった。

 振り返った紫嵐の表情は硬く、琥珀の姿を目に留めても変化がない。

「探したよ」

 無理矢理に笑顔を浮かべると、琥珀は胸元をごそごそ、紐をつけて首から下げられるようにした逆鱗を取り出した。

「これから敵地で、一番危険にさらされるのはどう考えても紫嵐だろ。黒麗はあれで、『黒』の字を持っているんだから、放っておいても平気だろうし、俺は俺で、お前と番になっているなんて言わなきゃわかんない」

 王宮の中は安全だとしても、その分外ではなりふり構わずに命を狙ってくる可能性がある。事故や事件に巻き込まれたと見せかける方法はいくらだってあるだろう。

「だからこれ。怪我も船酔いもばっちりラクになったんだから、効果は確かだよ。まあ、俺なんかの祈りじゃ不十分かもしれないけどさ」

 嘘。本当は、必死に祈った。毎日毎晩、寝る前に、どうか紫嵐が無事であることを願った。ありとあらゆる事態を想定して、逆鱗を握りしめて怪我や毒からの回復を、具体的に想像した。ただ願いを籠めるよりも効果がありそうだったからだ。

 紫嵐は琥珀の手から、逆鱗を受け取った。もとは自分のものであったというのに、裏、表とひっくり返して確認し、そのまま突き返す。

「紫嵐!」

 少々声を荒げたのは、仕方がないことだろう。こちらの心配、好意を無下に扱われたのである。

「これはお前に与えたものだ。それに、青龍族の祈りでなければ意味がないとも聞く。護符としての効果もない」

「でもっ」

 なおも言いつのろうとする琥珀に、話は終わったとばかりに背を向ける紫嵐。

「……私とお前が必要以上に親しくしていれば、累が及ぶ。人前では、慎むように」

 なんて身勝手な男だ。琥珀はとっくに命を預ける覚悟を決めたというのに、彼は懸けさせてくれない。宙ぶらりんに浮いた琥珀の心だけ、置いてけぼりだ。

「……紫嵐の馬鹿!」

 悪態をついた琥珀は、逆鱗を握りしめる。溜息をついて首から下げ、服の下へと隠した琥珀は、紫嵐とは逆方向に、大股でずしずしと歩き去った。



 青龍国の都までの道のりも、安穏と過ごしていた。ただし、馬車の中でも琥珀と紫嵐は口を利かなかった。人前では、と彼は言ったが、琥珀はそんなに器用ではない。歓談を内輪だけにとどめておく自信がないと紫嵐に言えば、「ならば内でも外でも同じように」と言われてしまったため、黒麗だけがぺらぺらと喋っている。

 正直、最初の頃は「なんでこいつも?」と思っていた黒麗の同行だが、ここに来てこれほどまでに救われることになるとは、思っていなかった。

 ふたりきりであればギスギスして、耐えきれないものになっていただろう。黒麗も琥珀の宣言と紫嵐の沙汰を聞いていたから、理解してくれている。

 立ち寄る村、立ち寄る村で「王子殿下ですか?」と囲まれる紫嵐を見るのは、大層気持ちがもやもやとした。大抵、若い女が群がってくるのだ。

 どけ、そいつは俺のもんだぞ。

 そう言って散らそうと思ったことは、一度や二度じゃない。だが、そうやってすぐに発見されて取り巻かれるということは、作戦が実を結んでいるということでもあった。

「あちらさんも、手出しをするにできなくて、ずいぶんといら立っているみたいだね」

 黒麗曰く、青龍国に入ってから間者の姿をあちこちで見かけるという。好意的ではない視線を向けてくる老若男女、王宮まで付き添ってくれる朱雀国の護衛たちは、そうした怪しい連中を捕えて、尋問にかけていた。琥珀たちの知らないところで、の話だが。

 もちろん、口を割る者はいない。忠誠を誓った人間を売るような奴が、王族子飼いの間諜や殺し屋になれるはずもないし、逆にべらべらと喋る奴らは、何重にも経由した依頼を受けているため、本丸にたどり着くことはできないものだ。

「現行犯で捕縛できればいいのにな」

 琥珀の言葉に、「そうだねぇ」と、黒麗はのんきな声を上げた。どんなときも変わらない彼の傍にいると、ホッとすることができた。

 青龍国に入って一週間余り。第五王子の凱旋の噂は、いよいよ国内全土に広まっている。市井の人々と触れ合うことによって、紫嵐の態度も若干軟化したように思われた。青龍族と一口に言っても、彼の親族のようなあくどい連中は本当に一部なのだ。むしろ国民は純粋に王族である紫嵐を慕ってくれていて、「ご病気が治られたのですね」と、感動して泣く老婦人すらいる始末であった。

 そしてとうとう、都に入る。

「いよいよだな、紫嵐」

「……ああ」

 互いに避けあってきたが、敵の懐にこれから飛び込んでいくというところで、琥珀は声をかけた。背中を力強く叩くが、頑健な彼は痛くもかゆくもなさそうだ。そういえば、とある街では子どもにぶら下がられてもびくともしない紫嵐を見て、「本当に病み上がり?」と、疑っている住民もいた。

 顔色もよく、どこもやつれていないし、髪だって多少ぱさぱさしているが、抜けたり白くなったりしていない。壮健な若い男そのものの彼を見て、陰謀の臭いを感じ取ってくれる人間が、ひとりでもいれば。

 頼もしいはずの広い背中が、今は少しだけ、所在なさげに見える。

 抱き着きたい衝動に駆られるが、できない。自分から、内でも外でも旅の相棒として扱ってくれと言ったのは自分だ。触れればきっと、伴侶としての在り方を望んでしまうに違いない。

 縋ろうとする両手を、琥珀はバチンと自分の頬を叩く方に切り替えた。突然の音に、紫嵐が振り向く。

「気合い入れた。絶対負けんなよ!」

 負けはすなわち、死を意味するのだから。

 琥珀が突き出した拳に、紫嵐は苦笑――久しぶりに、笑顔を見た気がする――して、軽く自分の拳を合わせた。


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