朱の巫姫、黒の貴公子【三】
目が覚めると、辺りは薄暗かった。昼までの記憶しかない琥珀は、今がどのくらいの時間なのかもわからず、身体を起こそうとして失敗した。頭が痛い。肩が痛い。うう、と呻き声をあげると、「大丈夫か?」と、小さな呼び声が耳に届く。
光源になっているのは、机の上の燭台であった。そこで何か書き物をしていたらしい紫嵐は、寝台に近寄って琥珀を再び寝かせた。
「怪我をして、熱が出ている。医者にも見せたが、しばらくは安静だそうだ」
「うぅ」
足手まといになってしまうことを嘆くと、紫嵐は珍しく、柔らかく笑った。布団の上から琥珀の胸あたりをぽんぽんと叩くと、
「子どもたちがありがとうって言っていたぞ」
と言う。怪我の功名とでもいうべきか、それは唯一のよかったことと言えそうだ。けれど目の前で大の男が木から落下したことは、彼らを大層驚かせてしまっただろうから、元気になったら謝らなければな、と思う。
紫嵐は琥珀の額から落ちた手ぬぐいを拾うと、氷水につけて硬く絞り、再び載せた。ひんやりとして気持ちがいい。熱はまだまだ上がるだろう。怪我の多いやんちゃな幼少期を送ってきたから、体感でわかる。
「ごめん」
「いや。黄王の託宣をいただくにしても、朱倫の準備やらふさわしい日取りを選ばなければならなかったりだとか、いろいろあるからな。気にせずにゆっくり休め」
慰めで嘘を言う男ではない。日程に余裕があるのは本当のことのようで、琥珀の肩からは力が抜ける。しばらく倒れていても大丈夫そうだ。
それにしても。
琥珀は紫嵐を見上げた。部屋の中はもちろん、扉一枚隔てた外にも、人の気配はない。こういうときに率先して動く役割の木楊がいない以上、誰が看病をするのかという問題はある。実際、船の中では黒麗や燦里、琥珀との関係性が築けていない人間ばかりだったため、紫嵐が看病を担うのは仕方のないことだったが、今回の場合は宿の主人が世話をしようと申し出たのではないか。
怪我のきっかけは、彼の子どもたちの依頼を受けたことだ。そういう義理に篤そうな人物であった。
けれど紫嵐ひとりということは、彼が断わったに違いない。
「どうして俺なんか」
と、疑問が口をついて出た。熱で頭が働いていないのだ。思ったことがそのまま飛び出してしまう。
じっと顔色を観察していた紫嵐の眉が、ぴくりと動いた。睨まれているような心地がして、琥珀は目にいっぱい涙を溜める。自制心がきかない。
「だ、だってさ、お前に全然釣り合わないだろ。木楊のときも思ったけどさ、朱雀の姫様は」
女で、お前と並んでいる姿も絵になっている。極めつけは、
「お前のことを、『ラン』なんて、特別な名前で呼ぶ」
遠い過去、琥珀の心を動かした可愛い友達と同じ名前で、紫嵐は彼女に呼ばれている。他の誰も呼ばない呼び方を、彼は許容している。特別扱いしている女がいるなら、逆鱗の掟なんか無視してしまえばよかったのだ。
どうせ、青龍国に戻って王族としての務めを果たすつもりもないくせに。朱雀国の姫に婿入りすれば、向こうも手を出せなくなって一石二鳥だ。
「と、特別な女がいるなら、俺なんかと結婚すんなよ」
ずび、と鼻を啜り上げる。見上げる紫嵐は俯いて……肩が少し、震えていた。もらい泣きではない。これは明らかに、笑いをこらえている。
「紫嵐!」
怒鳴ればずきりと頭が痛んだ。もういい、寝る。ふて寝してやる。久しぶりにふたりきりになれたとか、そういう感情がしゅるしゅると萎えていく。そっぽを向いて目を閉じても、感情が高ぶって眠気がまったく来ない。
「すまない。馬鹿にしたわけじゃない」
紫嵐の方を向かずとも、寝台に重みが加わり、衣擦れしたことで彼が空いている場所に腰を下ろしたことがわかった。絶対に顔を見せてやるものか、と毛布を頭からかぶる。少し暑い。
「朱倫とは、本当に小さい頃に知り合ったから、そのときの呼び名を今も使っているだけだ。お前が嫌ならやめさせるし、あいつも納得する」
「……」
無言でちらっと目だけ出して窺う。本当かよ、という疑いの眼である。
「国にいれば、命が危ういからな。子どもでは、戦う力も知恵もない。叔父が手を回して、療養のためと称してあちこちと外国を巡ったんだ。そのときに、朱倫とも出会って、あれは私のことを、兄か弟のように思っている。だから勝手に結婚したのを怒っただけだ。すでに仲睦まじい婚約者もいることだし」
聞き覚えのある経歴に、ドキリと心臓が大きく跳ねた。叔父に連れられた幼い子どもの存在に、心当たりがある。
「ランって……」
「ああ。本名を明かすと危険かもしれなかったから、叔父に言われて『ラン』とだけ名乗っていた……白虎国の王宮でも」
「!」
琥珀は身体を起こした。その背中を紫嵐が支えてくれる。見つめてくる彼の目が優しく、うろたえる。その奥には深い信頼がある。
「逆鱗の掟など、無視したってよかった。私は青龍族だが、もう戻る気はない。それでもお前と婚礼を挙げたのは……」
挙げたのは、と繰り返す琥珀の頭を、傷に障らぬようにそっと撫でた。
「お前がレンだからだよ。あの頃と全然変わらない」
そんなことはない。背もぐっと伸びたし、同年代に比べて幼いと言われがちな顔だって、輪郭は丸みを失い、精悍さもあると自認している。反論しかけた琥珀の唇に紫嵐は指を押し当てて黙らせた。
「変わらない。見た目もだが、中身も。子どもに優しいだろう? それに、私の手当をしたのだって、あのとき泣いていた私を助けてくれたのと、同じだ」
だから、木楊を粗末に扱っていたときに、あれだけ怒ったのかと気づく。正義感の強かった「レン」が、耳無しの従者を差別するような人間だったのが、許せなかったのだ。
そしてその過ちを認めたあとに、急に優しくなったのは、自分が「レン」のままであることを再確認したからだ。
「紫嵐……」
一度立ち上がった彼は、机から何かを取って、寝台に戻ってきた。琥珀の胸に寄越したのは、黒銀の鱗だった。船酔いのときから琥珀が預かっていたが、再び体調不良を癒すために祈りを籠めてくれていたのだろう。ぎゅっと握りしめると、温かい。
窓から差し込む月の光に、ふっと影が差した。頬に触れる指はひんやりとして、自分が火照っていることに気がついた。
(あ……)
来る、と思った瞬間、自然と目を閉じていた。うっすらと開いた口に、紫嵐の唇が下りてくる。柔い肉の感触は一瞬で、すっと離れていく。口づけは初めてではなかったが、こんな風に思いがこもったものはしたことがなかった。
「あの頃よりも、逞しくなっただろう? 守られてばかりの私ではないからな」
「……馬鹿」
抱き込まれて、琥珀はいよいよ真っ赤になった顔を紫嵐の胸にうずめるのであった。
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