情ある者【一】

 大きな口を開けると、殴られて切れた端が引きつって痛んだ。一度閉口して、上品なおちょぼ口で饅頭を食べる。あまり美味しいとは思えないそれ――と言うと、茶屋の看板娘に悪い。正確には、血の味が混ざっているから美味しくないのだ――を、琥珀は十個も二十個も積んでいた。茶屋の軒先を借りて、思う存分自棄食いである。

 こういうのは、大きな口で貪り食うのが美味いのに、それでもできやしない。全部紫嵐が悪い。馬鹿力で殴りやがった。父親に手を挙げられたのだって、子どもの頃の一回こっきりだ。ちなみに母には、頻繁に鉄拳制裁を受けている。

 従者の木楊を庇い、仮にも結婚相手の琥珀に激怒する。どんなに理不尽であっても、普通は立場が下の者を支配するのが、上に立つ人間の在り方というものではないのか。学校の教師もそうだし、父が務めている役所だって、上の人間は威張っているものだ。

 ……琥珀の家では、そんなことはなかったけれど。

 父は母の意見を一言も漏らさずに聞き、検討する。母は常に父のことを敬っている。琥珀のことは厳しくも見守ってくれて、その愛を疑ったことはないし、自分もふたりのことを何の衒いもなく「愛している」と言える。家族愛が強いのが、白虎族だ。

 加えて、両親はお人よしな性格である。実のところ、拾ってきたのは木楊だけではない。女中にしろ使用人にしろ、夫と死別して身動きが取れなくなってしまったり、悪人に騙されて全財産を失ってしまったりと、事情のある人間ばかりであった。

 貴族の家に仕える作法など知らない彼らは、最初のうちはよく失敗した。真っ青になって謝罪するのを、両親は決して声を荒げて糾弾したりはしなかった。優しく教え諭し、最後には「正直に話してくれてありがとう」と笑うのだ。

 それが不思議だった。何なら、琥珀の方がしょっちゅう厳しく叱られていた。特に木楊は、耳無しだ。戦う術のない人間を、どうして父も母も重宝がって、「いつも琥珀のことをありがとうね」と、礼を言うのかまったく理解できなかった。

 木楊は従者なのだから、自分の世話をするのは当たり前だ。なんなら、他では働くことを拒絶される耳無しを拾って使ってやっているのだから、礼を言う筋合いはこちらにはない。

 母親に面と向かって言ったら、殴られた。殴られ、泣かれた。どうしてこんな風に育ってしまったのか、と。

 腐っても貴族、王に連なる血の子だ。都に住んでいた当時は、母に直接養育されたわけではない。だから、どうして母が怒っているのかわからなかった。乳母がすべてをやってくれたし、いろいろなことを教えてくれた。彼女は家族のところに置いてきたけれど、幼い頃の琥珀は、実の母よりも乳母に懐いていた。貴族ならば、珍しくもない。

 白虎族は愛情深い。特に王の血を持つ男は、どれだけたくさんの妻を得ても、平等に愛することができる。それは、他の種族には絶対にできないこと。甘い焼き菓子をくれながら、彼女は言った。

 けれど、耳無しは違うのだと。彼らは白虎族でありながら、虎の特徴を持たない、呪われた人間である。決して愛されることはないし、愛したって無駄。

 ――旦那様方は、「耳無し」に対してもお優しいけれど、あれは情けをかけているだけですわ。坊ちゃまは、「耳無し」が価値のある者だと、ゆめゆめ勘違いなさらぬよう……。

 昔からの友人であるという乳母への母の信頼は篤く、琥珀の養育を彼女は一身に担った。

「……」

 大口を開けていた琥珀だが、手にした饅頭に小さく一口、噛みついた。

 あれだけ自分を撫でまわし、可愛がってくれた乳母はしかし、琥珀が都を追い出されるときには、見送りにすら来てくれなかった。

 もしかして、愛されていなかったんじゃないか。そういえば、乳母は時々、「あなたのお母様はねぇ」と、少女時代の母の失敗をわざとあげつらい、「坊ちゃまは、そんな風になってはいけませんよ」と、教訓的に締めた。

 そのときは、息子ながら母は昔から変わらなかったのだなあ、という印象を抱くだけであった。しかし今思えば、乳母の性格の悪さが滲み出ている気がした。本当は、母のことが嫌いだから、息子を利用した嫌がらせをしようとしていたのでは。

 だとすれば、彼女に教わったことは……。

 触れてこなかった領域まで記憶を遡り始めた琥珀は、ぼんやりとしていた。片手に饅頭を持ち、膝の上にはまだまだ残っている山。

「ねえ。食べないなら僕、もらってもいい?」

 明るい声にふと顔を上げると同時に、手に持っていた食べかけの饅頭が、突然現れた男の口に消えた。

「は?」

 急に出てきて、なんだこいつ。

 黒くて長い髪に、耳はない。羽もない。見える部分に鱗はない。さっと確認する手に大きな水かきがあるから、玄武族である。まったくもって、知り合いではない。

 琥珀もなかなかの癖毛だが、彼の髪の毛は輪をかけてくるくるだ。紫嵐ほどの美形ではないが、表情が豊かな分、親しみやすく、きっと女の人気はこの男の方が上だろう。長袍ちょうほうの仕立ても悪くはないから、金はありそうだ。

 なのにどうして、俺の饅頭を奪う!?

「っ、おい! なんだよあんた!」

「ん~?」

 のんきそうに指についた皮を舌で舐め取り、皿の上の饅頭に伸ばされた逆の手を、琥珀は思いきり叩いた。たいして痛くなさそうな顔で、「あいたたた」と泣き真似をし始めた男に、「あ、こいつは話の通じん奴だぞ」と即座に判断した琥珀は、饅頭を抱えて逃亡体勢に入った。

 天気がいいからと店先じゃなくて、宿に持ち帰って食べるべきであった。殴られて頬を腫らしただけじゃなく、こんな変な男に絡まれるなんて、今日は厄日である。

「それ、紫嵐でしょ? あいつ、手加減できたんだねぇ。本気でやられてたら、饅頭なんて食べられなかったよ、君」

 早歩きで立ち去りかけた琥珀をその場に縫い留めたのは、男の口から彼の名前が出たせいだった。振り返り、「あんた、あいつの何?」と、まだ警戒心を解かずに尋ねる。紫嵐は命を狙われている。嘆かわしいことに、家族から。

 第五王子の彼の名は、他国ではあまり知られていないらしいし、名前を書く場面では、琥珀の名を署名するようにしている。金を払っているのは紫嵐でも、宿の帳面に残るのは琥珀だ。そのくらい、気を遣っていた。

 だから、琥珀だけがいる場面で紫嵐の名前を出し、なおかつ「あいつ」と親しそうに呼んだ男に、琥珀は毛を逆立てる。

「おっと、そんなおっかない顔しないでよ。僕は黒麗こくれい。玄武族の、まぁ一応は貴族かな。僕は旅が趣味でね、それで青龍国に行ったときに、紫嵐と知り合ったんだ。まあ、ぶっちゃけて言うと、親友ってやつね」

 うわあ、胡散臭い。

 流れるように言葉を繰り出す黒麗はにこやかで、だからこそ、信用できない。喋れば喋るほど、好感度が下がっていく人物である。琥珀の顔を見て、「あれ?」と首を傾げているから、本当に自分の姿かたちや口ぶりが、どんな印象を与えるのか、理解できていないらしい。

「おかしいな……紫嵐みたいな不愛想よりも、こういう男の方が、警戒心を与えないんじゃないのか?」

 ぶつぶつと何事かを思案し始めた男を放置して消えようとすると、鋭く察知して肩を掴まれ、そのまま椅子に座らされた。

「おい」

「まあまあ、話してごらんよ。あいつ、顔も怖いし言葉も冷たいけどさ、突然友達を殴るようなことはしないよ」

 友達。

 男がふたり並んでいれば、それは兄弟か友達、あるいは主従の三つの選択肢からなるだろう。そのうちで、上下関係が少しも介在しないのは、友人同士の場合だけだ。琥珀と紫嵐は、傍から見れば友人なのだろう。

 実際には、仮初の婚姻を済ませただけの、赤の他人だ。琥珀の家族の命を守るために、帯同させているに過ぎない。

「俺は……あいつの友達なんかじゃない。俺なんかよりも紫嵐には友達にも、伴侶にもふさわしい相手がいるよ」

「ふぅん? それは君が連れてきた、『一己いっこ』の従者くんのことかな?」

「一己?」

 聞きなれない語に、首を傾げる。黒麗は簡潔に説明した。

 曰く、「耳無しや地限は、悪口だろう? 今一番暑いのは、『一己』なのさ」とのこと。人間の形しか持たない、という意味らしい。ふーん、と納得しかけて、いやいや違う、と琥珀は気を取り直した。

 こいつは、いつから自分たちのことを尾行していたのだろう。紫嵐の友人ならば、堂々と姿を現せばいいのに。睨みつける琥珀を、怖くもなんともないと笑顔でいなし、「僕はなぁんでも知っているんだよ」と、黒麗は片目をぱちんと閉じた。その表情だけで、怒るのも馬鹿馬鹿しくなってくる。

 琥珀は大きく溜息をついて、黒麗の手に饅頭をひとつ、載せてやった。わあいと喜ぶ男は年齢不詳だ。子どものようにも、年配の男のようにも見える。見た目とは違った老獪さすら感じる男は、大きな口で頬張りながら、琥珀に話をするように促す。

 まあいいか。ひとりでぐちぐちしていたって、何も進まない。少なくとも夜になったら宿で顔を合わせるのだ。それまでに言い訳のひとつでも考えておかなければ、今日の寝床はない。他の宿を確保すると言っても、自分ひとりで手続きをすることがなかったから、どうやって探せばいいのかすらわからない。

「情ってなんだろうな」

「うん?」

 紫嵐の言葉の中で、痛烈に感じたのは「白虎族の情なんてそんなものか」という部分だった。

 国土の半分ほどが砂地や岩場で、青龍国や朱雀国に比べると荒れた土地である白虎国が、それでも平和に暮らしているのは、王を始めとした国民たちの相互の思いやりからだという。

 多く持つ者は、持たざる者に。長じる者は年若い者たちを教え導き、逆に若人たちは先人を敬う。その最小単位が家族であり一族だ。琥珀は両親を尊敬している。あまり顔を合わせたことはないが、祖父母のことだってそうだ。乳母やその息子に対しても、親愛の情を抱いて接してきた。

 けれど、木楊のことは違う。同じ家に住み、食事の時間や場所は分かれているが、余裕はないから主人たる琥珀たちと使用人たちは、ほとんど同じものを食べている。各々に仕事をこなし、父は彼らに給金を払う立場だが、毎月手渡しをする際には、「いつも助かるよ。ありがとう」という言葉を欠かさない。使用人たちも嬉しそうに受け取って、「これからも頑張ります」と、より一層仕事に励むのである。

 琥珀自身、女中たちのことは親戚のおばちゃんとみたいなものという認識で、親しく話をすることも多い。向こうも向こうで、主人の息子相手とは思えないほど、結構雑な態度を取るが、琥珀は怒ったりしない。家のことを取りまとめている母親も、よほど作業の手が止まっているとかでなければ、注意したりしない。

「家族って、なんなんだろう」

 ひとつ屋根の下で暮らし、互いを思いあっているのが家族ならば、木楊の方は少なくとも、琥珀がどうやったら気持ちよく過ごせるかに心を砕いてきた。何かがあったら、自分が楯にならなければならぬと、慣れない森での仕事にも毎回ついてくるほどだった。琥珀だって、「木楊に耳があればなあ。そうすれば、兄弟みたいに過ごせただろうに」と、幼心に思うことはあった。

「耳無し」は、家族になれない。だから木楊は、もともとの家族に捨てられたのだ。ならば琥珀が、彼のことだけどうしても家族扱いできないのも、仕方のないことだ。

 今まではそう思ってきた。だが、今琥珀の胸に渦巻くのは疑念だけである。

 この思考は、母憎しで乳母に植えつけられえた思想であり、本当は「耳無し」だからといって差別する側の方がよくないのではないか。黒麗も、「耳無し」は相手を馬鹿にしていると言っていたし。

 考えれば考えるほど壺にはまっていき、ぐるぐると気持ち悪くなる。食べた饅頭を吐き戻してしまいそうだとなったとき、「はい」と、茶を差し出された。黒麗が、店の娘に頼んでくれたものだった。 

 ありがたく受け取り、ゆっくりと飲む。白虎国ではまだ暑さの続く季節だが、玄武国は時折ひやりとした風が頬を撫でる。いい季節だ。

「思い出してみたらどうかな」

「え?」

 一服し終えた後、黒麗は無断で饅頭を一個摘まみながら言った。訳がわからずにぽかんとした琥珀の口に、食べかけの饅頭を押しつける。まだ手元にはたくさん残っているのに、と思いつつも、元来潔癖ではない琥珀なので、そのまま黙って食べた。

「君が、家族っていいなあと思ったときのこと。そこに、『耳無し』の彼がどう関わっていたのか」

 もしも何の関係もなく、ただ黙って傍にいただけならば、従者は家族ではない。けれどもしも、親身になって、血の繋がらない他人のために泣き、怒り、笑うことがあればそれは、家族に準じる存在なのではないか。

 黒麗の言い分に、琥珀はなるほどな、と納得する。確かに、女中たちは琥珀のいたずらを叱りつけ、素直に謝ったり、手伝いをする琥珀のことを大げさなまでに褒めたたえた。彼女らは第二、第三の母親のようなもので、かつてはその筆頭であった乳母といえば、実のところ、叱られた記憶はなかった。ただほめそやすだけの彼女に懐いていたのは、自分があまりにも幼かったからだ。それはそれで仕方がない。

「家族……」

 琥珀がその存在に助けられたのは、はっきりとあのときだと言える瞬間がある。

 話した方がいいのかと、ちらり黒麗を伺えば、彼は「話して考えがまとまるなら話せばいいし、黙って自分で考える方がいいならそうしなよ」という態度であった。

 琥珀は頭がよくない。考えるのが苦手だ。悩むよりも、口に出した方が早い。

「俺がもっとずっと子どもの頃――……」

 白蓮びゃくれんと名乗っていた時代のことを、琥珀は思い返した。

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