龍の怒り【三】

 結局、木楊は大学の前までは一緒に歩いてきたが、中へ入るのは頑なに拒んだ。ここまで嫌がられると、無理強いするのもしのびないと、紫嵐は諦め、琥珀だけを伴って研究室へ向かった。琥珀の内心は、「うへえ」である。顔にも思いきり出た。

 想像していた通り、研究室の中には所狭しと書物や書きつけの紙、祭りのときなどに使用するのだろう仮面が並んでいる。いや、乱雑に放り出されていると言った方がいい。琥珀は大雑把な性格の男だから、埃っぽい以外はさほど気にならないが、研究室の助手を務める女は神経質そうだった。彼女がこの部屋の惨状を許しているのに違和感があったが、来客に茶を出す女をじっと見つめると、「なにか?」と、冷たかった。恥じ入る様子もない。

 やっぱり学問に熱中する奴は変だ。偏見を新たにした琥珀は礼を言い、黙って茶を啜る。意外といい茶葉を使っている。そういえば南の朱雀国は、茶の一大産地を擁しているのだった。

 さて、目の前に座る淵明は、どこもかしこも皺だらけの、よくいる老爺であった。玄武族は鱗がある点が、青龍族と似ている。青龍族が顔や首、腕など見えやすい部分に表れるのに対し、玄武族は背中や腹など、通常衣服の下に隠れる部分にできやすい。他の特徴といえば、手指の間の発達した水かきくらいである。

 つまりぱっと見、白虎族でいう「耳無し」、青龍族でいう「無鱗むりん」の連中との見分けがつかない。だからこそ、玄武国は四神の特徴を受け継がなかった者たちでも、比較的暮らしやすいという。大学で学問をさせてもらえるのも、そういう理由があるからだった。

 にこにこと笑っている淵明の視線にさらされて、琥珀は「この爺さん、苦手だな」と直感した。手がすっかり痩せこけてしまっていて、水かきが大きく張り出していること以外は、木楊とあまり変わらない風貌であるからだ。

 紫嵐が面会を申し込んだ事情をかいつまんで説明している間、琥珀はそわそわと落ち着かなかった。玄武国では「地限じげん」と呼ばれている、羽も耳も鱗もない人間を、琥珀はどうしても同じ人間だと思えない。一段劣る存在なのだと教えられてきた。彼らにそっくりな淵明に、へり下りお願いをしなければならない立場は、尻のすわりが悪かった。

「そうですな。さすがの儂も、千年前には生きておりませんで」

 ある程度の年齢に達すると、もはや年を取っても変わらない。実年齢を聞くほどぶしつけではないが、おそらく平均寿命の五百歳近いのではないかと思う。ついでにこの年齢になると、性別すら超越するようで、彼の真っ白な長い髪と髭がないのも相まって、時折老婆にも見えた。

「それはそうでしょうとも」

 千年を生きる種族がいるとしたら、それは四神そのもの。彼らは死んだわけではなく、それぞれの国の廟の中で永久の眠りについているだけだという。彼らが目覚めるときは、世界がもはや、一度破壊して作り直さなければにっちもさっちもいかなくなったとき。そうならないように、黄王は世界を調律している。

 紫嵐に、そんなことができるのだろうか。

 ちらりと窺う視線の先、彼は表情ひとつ変えずにいる。彼が黄王になりたいと思っている真の理由は、いまだに知らされていない。

 世界を自分の手で守りたい……なんていう、殊勝な心掛けでは絶対にない。彼の目は、前ではなくて後ろを向いていると感じるときがある。自分よりもよほど冷静なはずなのに、どこか危うい。

「しかし、儂の祖父母以上の世代は、前回の代替わりを見ていた人たちです。儂は若い頃に彼らの話を聞き取りましてな」

 紙は劣化する。だから、どうしても覚えておきたいこと、残しておきたいことは定期的に別の紙に書き写してあるという。

「その帳面が……はて」

 淵明は部屋を見渡した。なんだか嫌な予感がする。

「……どこに置いたかな、燦里さんり?」

「そのような帳面は見たことがありませんわ、先生」

「ううむ。前の助手のときに整理して、それきりになっているな……」

 淵明は頭を下げ、時間がほしいと言った。

「どこを掘れば出てくるかは、なんとなく見当がついております。なので、数刻待っていただきたい」

 探すや漁るじゃなく、「掘る」という表現が、どこか生々しかった。紫嵐は頷いて、それでは外で時間を潰そうという話になった。琥珀は正直、ホッとした。この部屋で待つと言われたら、蕁麻疹が出そうだった。

 淵明と助手が早急に見つけてくれることを願いながら、琥珀たちは外に出た。木楊には宿に戻るように言っていたが、彼は変なところで頑固者で、「主人がいないのに、ひとりで宿で休んでいることなどできない」と、正門の前で待つことになっていた。

 木楊も連れて、さてどこへ行くかと話をしていたら、ちょうど待ち合わせ場所である正門のところで、何やら揉めている声が聞こえてきた。白虎族の耳はよく、紫嵐もまた、空気の流れを読むのに長けている。彼の場合は種族の特徴というよりも、生きていくために身に着けた術という方が正しいが。

 少し近づいてみると、渦中にいるのは木楊であった。見知らぬ三下に絡まれているのかと思いきや、カツアゲとはまた様子が違っている。取り囲んでいるのは白虎族の男たちで、彼らよりも華奢な木楊は、さらに小さくなっていた。

「だからさ、なんでお前がこんなところにいるんだって聞いてるんだよ」

 黒い羽織の襟元に巻物を開いた形を象った徽章があるから、彼らがこの大学に通う留学生であることはすぐにわかった。そのうちのひとりが、しつこく木楊に絡んでいる。

 顔見知りだとすれば、砂流の街出身で、琥珀も見知っていないとおかしい。だが、片田舎の街では同世代の男の数も限られていて、年の近い者が留学生に選ばれたという話は、母の口からも出たことがない。女は噂話を聞きつける能力が、男の数倍優れているのだ。母が知らない以上、砂流の者ではない。

 男は背が高く、陰気で日陰で育った植物のようにひょろひょろの暗い奴という学徒に抱く印象を裏切るほど、屈強でもあった。逞しく髭を生やしていて、威厳があるかのように見せているが、本物が隣にいる琥珀には、あれがはりぼてだとすぐにわかった。

 見てくれではなく、他者を圧倒するのは醸し出す雰囲気である。表情、吐息、視線。そのすべてに冷徹な意志が見て取れる紫嵐こそが本物であり、木楊に絡む男は小物に過ぎない。

「わ、私は主人たちがここに用があって……」

 小声で事情を説明しようとする木楊を「聞こえねぇなあ!」の一言で切って捨て、男は言う。

「ここはお前みたいな奴が来ていい場所じゃねぇんだよ。うちから捨てられた、『耳無し』ごときが!」

 ようやく、男が誰なのかわかった。琥珀が知らないのも無理はない。砂流以外の街出身の、木楊の兄である。兄弟にしてはさっぱり似ていない。

 木楊が自力ではねのけられないのが悪いが、主人として従者が問題を起こすのはいただけない。田舎町とはいえ、白虎王の血に連なる「砂流の琥珀」と言えば、知らぬ者はほとんどいないし、何よりもあの程度の奴なら、自分がひと吼えするだけで、力の優劣を悟って尻尾を巻いて逃げていくだろう。

 助ける気はあったが、「耳無し」の木楊がからかわれ、嘲りの言葉を向けられるのは、今日に始まったことではない。あいつらを追い払ったら、木楊にも言い聞かせなければならない。いい加減に、自分で言い返せるようになれ、と。お前が「耳無し」なのはいまさらどうしようもないし、「耳無し」は牙や爪、攻撃手段がない弱い存在なのだから。

 慌てることのない琥珀をよそに、隣にいた紫嵐が動いた。風のように、とはまさしくその通りの動きで、あっという間に正門までたどり着きそうになっている。呆気にとられていた琥珀が我に返って後を追うと、紫嵐は木楊を背中にかばっている。

 どうやら木楊の兄は、相手の力量を測ることもできない愚か者らしい。玄武国に留学できるほど優秀だったはずなのに、外国で学ぶことのできる自分に酔っているのだろう。「ああ? なんだ、あんたは?」と、凄んでいる彼の後ろの友人たちは、「ちょっとあれ」「やばいって」と、紫嵐に怖気づいているので、多少はマシか。

「従者を馬鹿にすることは、我を愚弄することとなるが、いかに」

 普段よりも堅苦しい言葉遣いをあえてして、自分の位の高さを知らしめる。ここにきてようやく、男はとんでもない人間相手に喧嘩を売っていることに気がついた様子で、小刻みに震え始める。

ね。このことは大学に報告する。身分、種族に限らず教育はあまねくなされなければならない。たとえ四神の徴を持たぬ者であっても。大学の規則にもなっていよう」

 眉をひそめて事態を伺っていた周囲の者たちも、紫嵐が表立って注意をしたことによって、強く出た。そうだそうだ、という野次が飛び、男たちはぐう、と詰まる。留学生の彼らは、種族で差別しないという建学精神に助けられることもあっただろうに、今度は追いつめられることになるのである。

 何も言えなくなった男を、仲間は「おい」と引っ張っていく。彼らも止めずににやにやと木楊に絡んでいたのだから、同罪だ。

「大丈夫か、木楊」

 放心状態の木楊に、紫嵐が声をかける。先ほどまで他者を寄せつけない冷たさをまとっていた彼が、少しだけ温度の上がった声と態度で木楊を助けたことで、周囲で顛末を見守っていた人々も動き始めた。

「は、はい」

 震える声で応じた木楊に、「このくらい大したことないだろう」と励ますべく、琥珀は近づき、やれやれと言った調子で話しかける。

「あれがお前の兄貴か? ずいぶんと派手な兄弟げんかだったな。よくあることだろ? 忘れろ忘れろ」

 軽い口調に、木楊は肩を小さくして頷きかけた。だが、琥珀が彼の表情を見ることはなかった。目のまえに紫嵐が立ちはだかったせいだ。先刻仲裁に入ったときよりも、よほど怖い顔をしていて、慣れている琥珀であっても、たじたじになる。

「何度も私は言ったな? 従者の顔をよく見ろ、と」

「よく見ろって……」

 身体も顔も薄い印象を与え、頼りない風情の木楊。彼が青い顔をしているのなんて日常茶飯事だし、何か言いたげにしているけれど、結局何も言わないのもいつものことだ。

 特に何も感じていない琥珀を見て、紫嵐は溜息すらつかなかった。呆れ諭すという段階は通り越していた。

「お前は、こんなにも怯えている従者の傷に塩を塗って楽しいか? それではあいつらと同じだ。白虎族の情とは、そんなものか」

 低い声にびびりながらも、琥珀は反論した。あんな醜悪な奴らと同じなんかじゃない。こんなの、木楊が弱いのが一番悪いのだ。こいつが自分で言い返すことができる性格だったら、紫嵐に守ってもらってようやく相手を退けられるような奴じゃなかったら。

 こんなの、木楊が。

「木楊が……木楊が『耳無し』だからだろ! 俺のせいじゃない!」

 叫ぶと同時に、頬が熱くなった。痛みは後からじわじわとやってくる。

 紫嵐に張り手をくらわされたのだと理解が追いついたときには、すでに彼は琥珀に背を向け、木楊の肩を抱いていた。

 結婚相手は、俺じゃないか。どうして木楊ばっかり構うんだ。

 あいにく、頬が腫れ始めて口が上手く動かなかった。

 紫嵐は冷たい目を向けた。

「頭を冷やせ、琥珀」

 冷ややかにされても、どこか気を許したようなところがあった。彼が直接、琥珀に絶対零度の怒気を差し向けるのは、初めてのことだった。逆鱗を剥がされたと知ったときだって、怖い顔はしていたけれど、ああいう風に怒ったりしなかったのに。

 もしかして、とうとう嫌われたのか?

 馬鹿な琥珀に愛想を尽かしたりといったことは、何度もあった。木楊の方が賢いじゃないか、と鼻で笑われたことも。事故で結婚したとはいえ、琥珀や家族が拷問されて殺されるなどということがないよう、旅に同行させるくらいには、気にかけてもらえている。そういう自負があった。

 塵も積もれば山となる。何度も何度も、彼は琥珀と木楊の関係に口を出してきた。結局、木楊の方が気が合うし、本当は娶りたかったのではないか。

「うう……」

 喉の奥で唸る。

 泣きたいのは、頬が痛いせいだ。ただそれだけだ、と琥珀は、誰もいないのに心の中で言い訳をした。

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