龍の怒り【二】
玄武国、目当ての街に入った頃から、木楊はどこかおかしかった。
いや、紫嵐に「従者のことはちゃんと見ていろ」と怒られたから気づいたではない。琥珀が気にかけるまでもなく、木楊は普段やらかさない失敗を、短時間に次々に犯すのだから、一目瞭然でおかしかった。
「まさか、すぐに会えないなんてな」
やれやれ、と夕食の席にやってきた琥珀に、紫嵐は小さく頷いた。
「仕方がない。老師はもうかなりの高齢で、毎日大学に来ているわけではないそうだからな」
年を取っているから、というだけじゃなさそうだったが、と琥珀は三日前のことを思い出す。
紹介状を提出し、面会を求めた自分たちを出迎えたのは、淵明の研究室で助手を務める女性であった。学問をするのは男ばかりだと思っていた琥珀はぎょっとしたし、青龍国でも実情は同じだったのだろう、「失礼ですが、あなたは?」と、身分の証明を求めていた。老爺の情婦、という下世話な妄想が、琥珀の顔には表れていたのだろう。ムッとしながらも、彼女は朱雀国から留学し、そのまま淵明に師事して大学に残っているのだという旨を話してくれた。
確かに、彼女の耳や手には羽毛が生えている。朱雀国は女が中心となって政治を行う国だから、学問をする女も多いのだろう。国に帰らずに残って研究を続けるのは、男であっても珍しい。
留学は、大貴族のお遊びでなければ、優秀な学生を選抜し、国が費用を負担する、先行投資というやつだ。帰国後は国に尽くすのが一般的だ。まあ、梨信のような例外もいるし、目の前の女も同等に変わり者なのだろう。
まじまじと物珍しく見てしまう琥珀に、彼女は嫌悪感を隠さなかった。琥珀のことはまるっと無視を決め込んで、話のわかりそうな紫嵐に話しかけた。
『梨信殿のご紹介であれば、先生もお会いになると思います。しかしあいにく、先生は温泉に行ってしまったところで……』
帰ってきたら知らせると言われ、すごすごと宿に引っ込んだというわけである。それからは街をぶらぶらした。紫嵐が持ち出した装飾品を売りに行くというから、路銀も馬鹿にならないことに思い当たり、琥珀は宿の雑用をこなして少しでも宿泊費を浮かすことにした。
そして先ほど、大学からの遣いが淵明の帰還を告げにきたのであった。明日の午後に伺うことを伝言してもらって、ようやく事態が進展するわけである。
「先生との面会って、どのくらい時間かかるのかな?」
「さあ……玄武族は気が長いからな。私の聞きたいことについても、即答してくれるかどうか」
「げぇ」
琥珀は舌を出した。待つのは苦手だし、何よりも「大学」という、勉学に励む人間しかいない場所だ。先日は研究室とやらには入らなかったが、今回は入ることになる。梨信の家でも、感じたが、棚にびっしりと書物が並んでいるのを想像しただけで、琥珀は嫌になった。
「それ、俺もいかなきゃだめ?」
紫嵐は少し考えていた。黙しているが、きっと心の中はこんな感じだろう。
『こいつを連れていっても、特に役に立つことはないんだよな』
実際、役に立たないとは思うので、琥珀は自分から言った。
「まあ、一応は伴侶だから一緒に挨拶はするよ。でも、それでいいだろ? 俺は適当に時間つぶしてるからさ」
食堂の女将からも、下ごしらえの手伝いを頼まれている。豆を莢から取り出したり、海老の背わたを取ったり、おそらく食堂の人たちは、琥珀のことを白虎の貴族とは思ってもみないだろう。
「なんなら代わりに、木楊を連れていけよ。梨信のところでも、お前ら三人で盛り上がってただろ? それにこないだは大学に行かなかったし、いろいろ見せてもらうのもいいんじゃないか?」
本来、従者や使用人は主人と食卓を共にすることはないが、そういう点はなぜか寛容な紫嵐のもと、木楊もすでに夕食を終えている。食後の茶を淹れていた彼は、琥珀の言葉によってぴくりと動きを止めた。
この街についてすぐに大学へ顔を出すことになったが、木楊は馬を連れて宿に先に向かうということで、別れたのだった。琥珀と違って学問好きな木楊のことだから、大学に行きたがるとばかり思っていたのに。
「いえ、私は……」
「遠慮すんなよ。梨信とも紫嵐とも、話してて楽しいんだろ? 俺にはさっぱりわかんないけどさ。淵明って爺さん先生は、もっといろんなこと知ってるんだろ。会ってみたいんじゃないか?」
珍しく琥珀が気を回したにも関わらず、木楊は固辞する。
「私のような身分の者が、大学に足を踏み入れることはできません」
どちらかというと、彼は琥珀の機嫌に左右されやすい性格であった。自分の意志を貫こうとする気概はない。よほど大学に行きたくないのか、けれど琥珀と違って勉強が好きなはずなのに、不思議なことである。
「玄武国の大学は、その出自で学生を差別しない。優秀で意欲的ならば、庶民であっても奨学金を得て研究をすることができる。当然、『耳無し』であっても」
木楊の二の矢を先に潰したのは紫嵐であった。彼自身、琥珀よりも木楊を連れていった方が利になると考えているのだ。それはそれで面白くはないが、興味のない話を延々と聞かされるよりは幾分かマシだ。玄武族は皆、のんびり屋だ。ましてそれが、年老いた翁であればなおさらである。黙ってにこにこと話が進むのを待つのは耐えられない。
「む、無理です。無理、私には……すみません!」
茶を提供する手が震え、それどころではなくなってしまった木楊は、錯乱し、そのままガシャンと卓上に放り出した。部屋を出ていくのを、あっけにとられて琥珀は見送った。
「……何か事情がありそうだな」
思案顔で呟いた紫嵐の目は、琥珀に「木楊の事情を知らないか?」と、問いかけてくる。琥珀は首を横に振った。
「知るはずがないだろ。あれは両親がどこかから拾ってきたんだから」
都を追放されて、砂流の街に定住するまでの間、どこだったかの街で突然合流したのが木楊だった。耳も尾もない、ひょろひょろした子どもを、「新しい家族よ」と紹介されたときの琥珀の気持ちなど、紫嵐には想像できないだろう。どこかの貧民窟から気まぐれに拾ってきたに違いないほど、出会ったときの木楊は、臭かったし汚かった。
紫嵐は「そうか」と言ったきり嘆息し、琥珀にあれこれと尋ねるのをやめた。
沈黙すら心地よいのが相性のいい関係だというのなら、自分たちの間柄は最悪だ。
重苦しい空気に、琥珀の方こそ大きく溜息をつきたかった。
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