龍の怒り【一】

 梨信の家には二泊した。彼と紫嵐、木楊が話をしている間、琥珀は梨信の妻の手伝いを積極的に行った。

 家の主は学問馬鹿というやつで、気も利かない。普段は村の力自慢の男たちに頼んでいたという。梨信の妻は楚々として、この辺鄙な村ではなかなかの美人だ。手を貸す見返りに金銭以外のものを要求されることも多く、彼女は辟易としていたらしい。梨信先生は、ずいぶんと朴念仁だ。

 なので、琥珀が率先して引き受けると喜ばれた。声をかけてこようとした中年男を睨みつけると、自分との力量差を正しく推し量り、すごすごと引き下がっていく。腐っても元王族、村の平民たちを牽制するくらいは朝飯前だ。梨信の家を出る前に、一応「奥さんをちゃんと気にかけてやってくれよ」と忠告はしたが、あまり響いてはいなさそうだった。

「また機会があれば、いらしてください。歓迎します」

 というのは、社交辞令ではなさそうだった。

 目指す玄武国は、学問が盛んな国である。他の種族の倍ほど長く生きる玄武族は、余暇を持て余しているために、あれこれと思索を巡らせ、ときには議論を戦わせる。趣味が高じて、最高峰の国立大学は、他国の研究者がこぞって所属したいと願い、優秀な学生が留学してくるようになった。

 勉強嫌いな琥珀にしてみれば、蕁麻疹が出そうな場所である。きっと、学校にいたときに「うへえ」と思った人種がごろごろいるのだ。行きたくない。大学のある街の宿でひとり、留守番をしていたい。だが、紫嵐は許さないだろう。

 馬の上、ぴんとした背中を見つめる。彼が弱っているところを、琥珀は出会った龍型のときしか見ていない。実家で療養していたときだって、布団の上でふんぞり返っていたものだ。

 どうしてか、紫嵐は琥珀を手元に置いておきたがる。興味のあることが違うのだから、自由にさせてくれればいいのに。

 字もきれいで、こまめに琥珀の実家へと手紙を送っている紫嵐は、自分などよりもよほど、木楊との方が気が合うだろう。実際、琥珀のわからない話で楽しそうにしているときがある。梨信の家に行くまでの間は、琥珀ばかりが喋っていたけれど、今は琥珀だけが沈黙している。

 木楊って、あんなふうに笑うんだな。

 後ろからとぼとぼと馬を歩ませる琥珀の目の前で、ふたりは並んでいる。木楊は夢中になって紫嵐に話しかけていて、その頬は薔薇色に染まっている。紫嵐も彼を邪険に扱うでなく、小さく相槌を打ちながら、ぼそぼそと返事をしたり、時には微かに笑っていたりした。梨信と三人で会話をしたことで、木楊の緊張が解けたらしい。

 それにしても、である。

 ふたりとも、琥珀に見せる顔とはあまりに違いすぎやしないだろうか。特に木楊に関しては、お互い十になるかならないかの年のときからの付き合いだから、相当長い。なのに彼はいつも、琥珀の顔色を窺って、びくびくしているのだ。紫嵐も紫嵐で、自分には皮肉しか言わないじゃないか。

 ぶすっとしてついていく旅は面白くない。あのとき紫嵐を助けたことに後悔はないが、役割を逆にしておくべきであった。巨体の龍に木楊が恐れおののいていたからその場を離れさせたし、冷静な人間の方が残って手当をすべきだと思ったから、そうしたまで。

 もしも木楊が紫嵐の逆鱗を剥がしていたら、今頃はお似合いだっただろうし、自分といういらないおまけもついてこなかった。結婚すべきなのは、木楊だった。

 ああ、早く離れられたらいいのに。

 青龍族の掟については、梨信にも相談した。彼は「別に神罰が下るわけではないのですが」と言った。ならば今すぐにでも婚姻関係を解消しよう、と意気込んだ琥珀に、紫嵐は無表情をさらに冷たくした。

『掟を守れなかった者は、貴族だろうがなんだろうが、見下され石を投げられる。無論、拒んだ側の人間も』

 などと脅してくるものだから、やってられない。

 ――お前だって、木楊と一緒にいる方が、楽しそうじゃないか。

「そろそろ休憩しよう」

「ええ? 今日中に次の街に行っておきたいんじゃなかったか? 俺、まだいけるけど」

 紫嵐の提案に、琥珀は文句を言った。休憩時間ともなれば、それこそ琥珀はやることがない。野営となれば薪を集めにいったり、食事の準備をしたりとやるべきことはあるが、明るい時間、小休憩に焚火は必要ない。

「お前は」

 声色だけで、彼の感情は少しずつわかるようになっていた。特に、「お前は」で一度言葉を切るときには、確実に彼は、自分に呆れている。

「自分の従者のことくらい、ちゃんと見ろ」

「従者って……」

 木楊?

 琥珀は首を傾げ、紫嵐の言葉どおりに木楊のことを見る。すると、馬の上で姿勢を保っているのもやっとという有様で、ふらついていた。馬の調教がよく行き届いていて、乗り手のふがいなさを上手くかばっているからどうにか落馬せずにいるが、これがもしもじゃじゃ馬だったとしたら、木楊はとっくに振り落とされている。

「私より、お前が気づくべきだろう」

 琥珀は黙った。あれこれと言いたいことはある。

 後ろからついていくだけの自分が、木楊の顔色が優れないことに気づくわけがない。むしろ、後ろで不機嫌になっている自分に気づいてしかるべきではないのか。主人が従者の顔色をうかがうなんておかしな話じゃないかとか、今は紫嵐の方が主みたいなもんじゃないか、とか。

 けれど、上手く言葉にならない。頭がごちゃごちゃして、整理しきれないのだ。感情のままに垂れ流しても、ますます紫嵐を呆れさせるだけだろう。琥珀は黙り、木楊に怒鳴った。

「具合悪いなら、早く言えよな!」

 紫嵐の助けを借りて馬から降りた木楊は、青くなって「申し訳ありません」と目を伏した。紫嵐が再び何か説教をしようと口を開きかけたのを制して、琥珀は「俺、もうちょっと先の様子見てくるから!」と、馬を走らせた。


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