寒村の賢者【二】
梨信の暮らす村までの道中、琥珀はあまり喋らなかった。すると、無言で馬を進めるだけの集団が出来上がる。紫嵐はまるで気にした様子もなく、木楊はおどおどと、結局は口を噤んだ。
その態度が嫌になって、琥珀はあれこれと木楊に雑用を押しつけた。大勢の供がいるでなく、たった三人きりの旅では、ふんぞり返って殿様扱いは望めない。この中では一番身分の高い紫嵐ですら率先して動いているというのに、琥珀は野宿の際の薪拾いも火起こしも、後始末まですべて木楊にやらせた。
だって自分の世話をするのが木楊の仕事なのだ。もうずっと。それを疎かにするのは、許されない。
もの言いたげな目でこちらを見ている紫嵐に気がついていたが、琥珀は寝たふりをしてやり過ごした。
ぎすぎすした空気が、いつ破裂してもおかしくない。自分自身の行動のせいで出来上がった雰囲気なのに、琥珀は嫌気がさしていたし、紫嵐がいつ怒鳴り散らすのではないかと、ひやひやしていた。
だが、そうなる前に村に着いた。名を円郷。この村の先の森を抜ければ、玄武国はすぐである。
梨信の家は、村のはずれにあった。広大な森が庭のようである。先ぶれを出す人的余裕などないため、突然訪問したが、幸いにも彼やその妻は気のいい人物で、歓迎してくれた。
「こんな遠いところまでわざわざ」
国境にある村だが、街道からも外れている。玄武国に向かうには、白虎王の肝入りで通した国道が存在するため、ここは忘れ去られたと言っても過言ではなかった。村人たちがじろじろと眺めてきたことに納得した琥珀は、差し出された茶に口をつけた。実家で飲んでいたものに品質は劣るが、なるべく大きな街には寄りたくないという紫嵐の意向によって、野営の方が多い道中では、かなり美味い部類に入る。体力のない木楊も、ホッと一息ついていた。
「狭い家ではありますが、泊まっていってくださいね」
本当に小さいなあ、とはさすがの琥珀も言わないだけの分別はあった。紫嵐は「かたじけない」と頭を下げ、本題に入る。
あいにく、梨信の専門としているのは天文であった。空の様子から、様々なことを読み取るのだと言われても、琥珀はよくわからなかった。紫嵐たちは理解しているようで、頷きながら、「ならばますます、中央は梨信殿を手放したくなかったのではないか」と言った。
「いいえ。都には私などよりもずっと才気溢れる研究者がおります。天文と言っても、私が得意なのは暦の作成ではなく、天候を読むことなのですよ。だからこの村でも、重宝されております」
「これはまた、ご謙遜を」
紫嵐が丁重に扱うから、どうやら梨信はやはりすごい学者であるらしい。しかし、琥珀の興味は茶と一緒に出された焼き菓子であった。硬いが、ほのかに甘くて口に合う。奥方は料理上手と見た。これは夕食も楽しみだ。
「黄王の代替わりにつきましては、私はたいしたことは知りません。ただ、歌は残されていますね。ご存じですか?」
紫嵐は首を横に振る。ちら、と寄越す視線は琥珀に向けたものではなく、木楊にだった。天帝や黄王に対する信仰が薄いとはいえ、王子の紫嵐が知らないことを、木楊が知っているわけないだろう、と琥珀は鼻で笑う。
だが、木楊は遠慮がちに頷いた。
「学校の先生に借りた本で、読んだことがあります。ええと、確か」
『情のあること白虎のごとし。
賢きこと玄武のごとし。
暗誦した木楊に、梨信は大げさに手を叩いた。
「そうです、それです。もっともこれは、黄王そのものというよりも、黄王という完璧な存在に近づくにはどうしたらよいかという、哲学書というか、人生指南書のようなものなのですけれど」
つまりは大人が都合よく子どもを教育するための、説教じみた本だというわけだ。学校の教師が好きそうなことである。
琥珀はつまらないというのを隠すことなく、木楊の分の菓子を頬張った。紫嵐の鋭い視線が飛んでくるが、こんなことは幼い頃からの習慣だし、木楊はつだって、「私はいらないので、琥珀様がお召し上がりください」と言うのだから、わざわざ許可を得る必要もない。
「けれど私は思うのですよ。一度黄王になってしまえば、千年もの間、貴山で現世の平穏のために努力しなければならないわけでしょう? 生半可な決意だけでは通用しません。何事も適正があるのです」
「適正……」
琥珀は少し考えた。歌に現れた四つの資質、「情があること」「烈しい気性であること」「厳かさを備えていること」「賢いこと」のうち、紫嵐は三つは持っていると思う。けれど、白虎族のような情、とりわけ家族への愛情は一切持っていない。与えられたことがほとんどなかったらしいから、仕方がないことなのかもしれない。
梨信には、紫嵐が黄王になりたがっているということは隠している。貴山神殿に奉納し、ある誓願を立てるにあたって、黄王のことを調べていると言っただけだ。研究者である彼は、自分の考えに真剣に耳を傾けてくれる紫嵐たちを、心から歓待している。
「代替わりというのは、本当にあるのだろうか。あるとしたらいつどこで、それは行われるのだろう」
「さあ……そこまでは私は研究していないので」
そこで言葉を切ると、梨信は妻に目配せをする。彼女はすぐに心得た様子で、一度引っ込み、紙と筆、墨を持ってくる。梨信は「ありがとう」と受け取ると、さらさらと淀みなく記入していった。
「若い頃、玄武国の大学に留学をしておりましてね。そこで
彼がしたためていたのは、紹介状であった。田舎の寒村ではなく、留学生の受け入れをしているほど大きな大学だ。行ってすぐに取り次いでもらえるはずもないし、不届き者として警備に連行される可能性すらある。
墨を乾かしている間、琥珀はちらりと手紙を覗き込んだ。達筆すぎて、何が書いてあるのかわからなかった。
「ありがたいことです。感謝してもしきれません」
紫嵐が金子を幾ばくか渡そうとすると、梨信は首を横に振った。いただけません、と固辞した。
「私はあなた方の求める知識を提供できませんでした」
「しかし、宿泊代としてでも」
言い募る紫嵐に、首を横に振った。じっと彼の目を見つめ、梨信は微笑む。
「青龍族の御方が、こんな田舎までやってくるのは何か事情があるのでしょう? 私なぞに使う金は勿体ありませんよ……私も情ある白虎族ですからね」
その情は、主に家族などの愛するひとに向けられるものである。梨信は見ず知らずの自分たちのことまで慮ってくれるというが、白虎族でもいささか彼は、博愛主義者過ぎる。見れば彼の妻は、「困ったひとですねえ」とばかりに苦笑していた。彼女としては、謝礼金は欲しかったのだろうが、夫の意向を尊重しますよ、という立場のようである。
「そうですね、それでも何かしたいというのなら、話し相手になっていただけますか? 見てのとおりここは田舎ですから、なかなか論じることのできる相手もいなくて」
紫嵐はそっと息をついた。辺境に住むほどの学者の意志はとても強固なもので、突き崩すことはできないと判断したのである。
「では、私と木楊が相手になりましょう」
「えっ、わ、私ですか!?」
木楊には存在しないが、彼に耳と尾があったら、驚きにひくついたり、膨らんだりしていたであろう。
「お前は私よりもずっと賢く、考える力もあるだろう。いい機会だ。梨信殿に様々な教えを請うて、これからの生活に役立てるがいい」
手放しの賞賛に、木楊は真っ赤になって何度も頷いている。
最初から数に入れられていない琥珀としては、非常に面白くなかった。わざと音を立てて立ち上がる。
「どこへ行く?」
紫嵐の咎める声に、「うるさいな」という気持ちを隠すこともせずに、琥珀は振り返り言った。
「俺がここにいても、何がなんだかちんぷんかんぷんだからな。他のことで俺の分は支払うよ。お前らに養ってもらうんじゃ、男がすたるからな」
ふん、とそっぽを向いた琥珀は、梨信の妻に申し出た。
「そういうわけだから奥さん、力仕事とかなんかあるかな?」
紫嵐ほどではないが、琥珀からも拭えない貴族の空気感というものは多少出ているらしい。緊張し、夫の指示を仰ぐ彼女の背を押して、琥珀は部屋を退出した。
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