旅に出る理由【二】

 紫嵐について家を出ると両親に切り出すと、泣いたのは父だった。

 子どもの頃から、よその家とは違って、自分の父は表情豊かであるとは気づいていたし、しかめっ面であれこれと妻や子に命令する父親よりも、常に微笑みを絶やさない自分の父の方が絶対にいいと思っていた。だが、泣き顔を見るのは初めてだった。

 琥珀が「紫嵐についていく」と宣言したのは、夕食時に全員が揃っている場で、もちろん、紫嵐も同じ食卓を囲んでいた。てっきり、寂しがりながらも快く送り出してくれるとばかり思っていた。ほら、可愛い子には旅をさせよというだろう。

 食事が始まってすぐに切り出したのを、後悔した。夕食どころじゃない。

「こ、これから家族が増えると思ったのに、どうして」

 さめざめと涙を流す父を、どう慰めていいのかわからずに琥珀は慌てふためく。数少ない使用人たちも同様で、一番古株の、父の乳母を務めていたばあやなど、まるで息子にするように背中を撫でて慰め、自分もまた泣いていた。

 まさしく阿鼻叫喚、である。自分の不注意でこの事態を招いたことを深く反省しつつ、琥珀は紫嵐に「助けてくれ」と視線を送った。しかし、彼もまた驚いているのだろう。それはそうだ。青龍族の王が、こんな風に恥も外聞もなく、泣き喚いて息子の独り立ちを止めるわけがない。庶民の家ですら、こんな愁嘆場は起きない。

 この状況を打開したのはやはり、母であった。女は強い。母親は最強だ。手をパンパン、と打ち鳴らして注目を引きつける。父の涙はびっくりして止まった。

「落ち着きなさいな。そもそも琥珀が嫁をもらったって、いつかは出ていくことになっていたでしょう。それが少し道を間違って、青龍族の王子様の嫁に収まっただけで、結果としては同じ」

 道の間違い方は「少し」ではない。

 琥珀は思ったが、賢明にも口に出さなかった。

「それで、紫嵐様。いつお立ちになるのかしら?」

「え、あ、そうですね。遅くとも、七日後には」

「じゃあそれまでに、いろいろ準備をしませんとね。琥珀はたいしたことはできませんが、体力だけはあります。この子にできないことは……木楊」

 呆然とするばかりであった琥珀の従者は、母に呼ばれて肩を大きく跳ね上げた。大げさな反応に、母は目を細めて、「ぼうっとしているんじゃありませんよ」と、鋭く言った。

「木楊にはいろいろと仕込んであります。どうぞ、この子もお連れください」

 母には見えないところで、琥珀は「げぇ」と舌を出した。家を出ることになっても、木楊とは一緒にいなければならないのか。しかも自分は体力馬鹿だと下げておいて、木楊は何でもできることになっている。いろいろなことができたって、結局のところ、力こそすべてだ。

 頭を下げている母の後ろで、琥珀は紫嵐に向かって「断れ」と目で合図する。察しの悪い男ではない。

 紫嵐は一瞬だけ、琥珀と目を合わせた。しかし、すぐに母に視線を戻すと、外向けの愛想のいい微笑みを浮かべて、「構いません。もともとそのつもりでいました」と、琥珀の願いと真逆のことを言う。

 馬鹿野郎。木楊の鈍臭さを知らないからそんな風に笑っていられるんだ。

 紫嵐の言質を取った母は大きく頷き、最後に父に身体ごと向かい合った。まだうじうじしている自分の夫に向かって、「あなた」と、それまでとは打って変わって猫なで声を出す。琥珀の腕じゅうに鳥肌が立った。

「なんだい、お前」

 どことなくびくびくしている父にそっと近づいた母は、耳元でぼそぼそと喋っている。みるみるうちに父の頬に血色が生まれ、涙ではない目の輝きさえ表れる。

 いったい母は、何を言ったのか。訳のわからぬ琥珀に比べて、様子を見守っていた紫嵐は、くっと喉の奥で小さく笑っていたから、おそらく母の唇の動きを読んだのであろう。

 それからは、父も息子の旅立ちに反対しなかった。別れを惜しむように、あれやこれやと旅支度を整えるのを手伝ってくれ、日々生き生きとしている。本当に母が何を言ったら、こうなるのだか。

「なんだかお前の家、慌ただしいな」

 そんな折、街中で出会った長老の孫息子に指摘され、琥珀はどきりとした。秘密裡に旅の準備をしているのは、事前情報を誰にも与えないためである。出発して、琥珀たちの不在が明らかになったときも、両親には「新婚旅行だ」で通してもらう手筈になっている。

「そりゃあ、家族が増えたんだから、ちょっとはドタバタするのも当たり前だろ」

 平然と応える琥珀を、孫息子は鼻で笑う。

「嫁じゃなくて婿をもらって、それで喜んでるんだから、お前んちの親はやっぱり頭がおかしい。だから都落ちしても、平気でいられるんだ。俺だったら、とてもじゃないが耐えられんね」

「なんだと!?」

 彼の取り巻きもげらげらと笑い、持ち上げる。都を追い出された貴族と、西の端で最も大きな街の名士、えらいのは後者であると思い知らせようとしてくる。無論、屈する琥珀ではない。

 自分が馬鹿にされるのは、まだいい。頭の回転もよくないし、自分でも反省すべき点は多いとわかっている。けれど、両親は違う。都落ち都落ちと嘲笑われても、決して真正面から言い返したりせずに、朗らかに毎日を生き、その誠実さで周囲を黙らせてきた人たちだ。それに、都を追い出された理由が琥珀であることを、彼らは決して言い訳に使ったりしなかった。

 加えて、紫嵐も見下されていることに、我慢ができなかった。青龍王族でも、こんな落ちぶれた家の者、しかも男を伴侶にしたことを、彼らは嘲笑する。最初は媚びへつらって、自分のところに招いて恩恵を受けようとしていたのに、受け入れられなかったら、これだ。長老自身は好々爺でも、後継者であるこの男自身とその父は、好きになりようがない。

 持っていた荷物を、供として付き添っていた木楊にすべて預けた。

「琥珀様!」

 よろめく木楊には止められない。怒鳴り散らして立ち向かう。相手は五人でこちらはたったひとり、どころかおろおろするばかりのお荷物さえいる状況だが、舐められたままでいるのは、矜持が許さない。

「お? やるかぁ?」

 好戦的な表情の男の周囲を、従者や取り巻きの若者が取り囲む。結局、自分の手は汚さない。大きな口を叩いて挑発しておいて、周囲の者に任せっぱなし。

 こうはなりたくないものだ。

 拳を握り、琥珀は誓う。自分の言動が招いた事態は、自分が蹴りをつける。それが男というものではないか。

 琥珀は振りかぶり、ひとりを殴ろうとして乱闘が始まりかけたところで、待ったがかかった。高く上がった拳を、それ以上の力で制止するのは紫嵐である。

「そのほうら、我がつまを多勢で囲み、何をしようとしている?」

 平坦な声だからこそ、感情は推し量るしかない。たとえ紫嵐自身は何も考えていなかったとしても、向こうは勝手に、激怒していると解釈する。

「え、ああ、いえ。特に、何も」

 体力自慢の白虎族だが、青龍族相手には分が悪い。こういうときも矢面に立つ気のない男を、紫嵐もまた、「こいつは駄目だ」と見切りをつけるのは早かった。長老が慕われているのは、国から来た役人相手であっても、街の者を代表して断固として戦ったからだと、父から聞いている。この男に、その気概はない。祖父の威を笠に着ているだけの小物である。

 そそくさと逃げ出す連中をぎろりと最後まで睨みつけていた琥珀の肩を、紫嵐は抱いた。

「は?」

 あたふたしている木楊に、先に帰っていなさいと命じて、彼はそのまま歩き始める。

「おい。俺も帰……」

「あれはきっと、私たちが出ていけば、お前の親にごみのような言葉を投げかけるぞ」

 ぐっと詰まった。今は自分が防波堤になっているし、彼の父親はまだ分別があり、紫嵐がいる場所では表立っては何も言わない。だが、新婚旅行と称して出て行った息子たちが戻らないとなれば、どうなるかわからない。

「お前が私の夫であることを、存分に知らしめておく。そうすれば、周囲が止めるだろう。ああ、時々はあれの家にも手紙を送ってやろうか」

 あの爺さんなら、感激のあまり、我が書状を学に入れて飾るかもしれないなあ。

 くつくつと暗い笑いを浮かべた紫嵐に、うすら寒いものを感じた。手紙という名の、丁寧な文体、美しい文字の脅迫状なのであろう。それを毎日眺めなければならない父子……精神に悪そうだ。

「残りの買い物は、何かないか? なければ、どこか店に入って茶でも飲もう」

 ふたり並んで外に出るのは、婚礼の儀のときだけだった。不仲の政略結婚を疑いつつあったのかもしれない街の住人たちの視線が痛いほどだ。

 ――事故で結婚しただけなのに、どうして俺の親のことまで。

 じっと見上げる琥珀の視線に気がついたようで、紫嵐は言う。

「助けられたのは、本当のことだからな。私は恩知らずではない。それに、お前の両親は善良だ。力になりたいと思うのは当たり前だろう」

 本心かどうか、目を見ればたいていのことはわかる。けれど、店を物色する紫嵐はこちらを見ていなかった。



「紫嵐様。どうぞ、この子をよろしくお願いします」

 深々と頭を下げる両親を、何とも言えない気持ちで見つめた。

 紫嵐の言葉どおり、七日後の早朝に出立することになった。人目につかない時間に出て、実際にはいつからいなかったのかを攪乱するためである。

「悪いようにはしない」

 紫嵐はたったそれだけ言った。実際は、命の保証もない旅である。両親は、青龍国内で何かがあったことは察知していても、白虎国では治外法権は通用しないと信じている。琥珀が万が一傷つけられても、おれは白虎国の法律で裁かれる。国同士の大問題に発展するからだ。

 両親は、紫嵐の口車に乗せられて、青龍国から紫嵐の行方を聞きに来る者は、彼の味方であると信じた。助力のために紫嵐を探しているのだと。これで青龍族からの追手に、紫嵐のことを隠蔽して危険な目に遭う可能性はだいぶ減ったのではないかと思う。その分、こちらの危険性が増すわけだが、若い男三人と、戦う術を持たない夫婦では、命が助かる確率も違う。

 顔を上げた両親の目には、うっすらと涙の膜が張っていた。琥珀は気づいていたが、何も言わなかった。

「父上、母上」

「落ち着いたら、手紙を書くのよ。ああでもあなた、字が汚いから……木楊が代わりに書いてくれてもいいわ」

 母のあまりの言い様に苦笑して、琥珀は「ちゃんと俺が書くよ。丁寧にさ」と宣言した。

「私たちはお前の帰りを待っているよ。もちろん、紫嵐様も。あなたはもう、うちの婿殿だからね。自分の家だと思ってほしい」

「ええ、ありがたく」

 つつがなく挨拶を済ませる紫嵐の黒髪は、朝焼けによって虹色に輝いていた。あの日、琥珀が誤って剥がしてしまった逆鱗のように。

 特別な鱗は、紫嵐に返却していた。琥珀が持っていても仕方がないものだからだ。紫嵐はそっけなく、「ああ」と頷いて受け取り、荷物の一番奥に突っ込んでいた。誓約の役目を果たし終えた鱗には、何の価値もないということなのだろうか。

 父と母は仲良く並び、父は母の肩を抱きよせていた。これまでも仲睦まじかったが、最近は特にそうだった。息子がいなくなるのだから、ふたりともお互いに人恋しくなったのかもしれない。

 琥珀は最後に両親と抱擁を交わし、「行ってきます!」と、努めて明るく宣言して、一歩を踏み出した。旅の道連れは木楊、それから不本意ながら結婚した夫、紫嵐。

「そういえば父上、あれだけ泣いてたのに、母上に何か言われてからは、今日まで全然泣かなかったよなあ」

 木楊も紫嵐も、口数の多い方じゃない。沈黙する道中に耐えかねて、琥珀は軽口を叩く。

「ああ、それは、お前がいない間に兄弟を作るのはどうかと、義母上から言われたからだな」

「は?」

 あの両親、いったい何を考えているんだ……? 旅を終えて帰ることになったら、弟か妹ができているってことか?

 途端に頭が痛くなってきた琥珀の旅は、前途多難であった。


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