旅に出る理由【一】

「ほら、起きなさい琥珀! 旦那様よりも遅く起きるなんて、許されませんよ!」

 朝の日の光はとばりに遮られて柔らかくしか入ってこない。健やかな寝息を立てて、優雅な朝寝の心地よさに浸っていた琥珀は、寝台の敷布を引っ張られ、転がされた。落下の際に顔面を強打して、「へぶ!?」と、変な呻き声をあげる。

「母上! 乱暴すぎやしませんか!?」

「こうでもしないとあなた、起きないでしょう? ほら、着替えた着替えた。すでに紫嵐様はお仕度できているんですから」

 婚礼が終わってから、三日。まだ本調子ではない紫嵐は、琥珀たちの家に留まっていた。長老の息子や孫が、何度も「我が家にもおいでください」と招待しようとしたが、両親が首を縦に振らなかった。それどころか、紫嵐に会わせようともしない。まだ療養中であると面会謝絶にしている。

 特に母親は、紫嵐のことを「我が家の自慢の婿殿」と、何くれとなく世話を焼く。歓待される紫嵐も満更でもない様子で、「義母上、助かります」と、それはそれは丁寧な物腰である。琥珀に対するものとは違って。

 大あくびをしながら着替えていると、寝具の敷布やらなんやら、汗を吸った布を洗濯のために取り去り、ぐちゃぐちゃにまとめている母が、「そうそう」と高い声で言う。

「先生のお許しが出たから、明日からはあなた、旦那様と同じ部屋で寝なさい。あそこはもう、客間じゃなくて紫嵐様のお部屋だからね」

「はぁ?」

 琥珀は客間の間取りを思い浮かべた。すっかり紫嵐仕様に花や絵を飾っているが、問題はそこではない。

「……寝るとこ、ひとつしかないじゃん」

 寝台はひとつしかない。いずれ来る妻と一緒に寝るために、夫婦用の寝台を琥珀は使っていた。客間もまた、同じ大きさのものである。これを移動させるのか、少々窮屈すぎやしないか。琥珀が寝台を指して問えば、母は何を言ってるんだか、という目をした。

「契りを交わしあったのだから、同じ寝台で寝るのが当たり前でしょう?」

 だからそれは、可愛い奥さんが来たときの話であって、逆鱗を剥がした剥がさないで強制的に結婚させられただけの男同士で同衾するなど、想像しただけで、うえっ、となる。

「あなたみたいに粗暴な子のところに、可愛いお嫁さんが来てくれるわけないと思ってたけれど、まさかあんなに麗しい婿殿を連れてくるなんて、思ってもいなかったわ。ま、孫の顔が見られないのは残念だけれど、その辺は養子でもなんでももらえばいいから、気にしないのよ」

 夢見る乙女のように、歌い踊りながら回収した布をぎゅっと握り、部屋を出ていく母に、何が言えようか。都にいた頃は、父の陰に控えておとなしくしていた母だが、どうやら、この中途半端な田舎暮らしが一番性に合っていたらしく、今では父すら頭が上がらない。いわんや、息子をや。

 なんだか頭が痛くなってきて、琥珀は頭をガシガシと掻いた。

鏡台に映る自身の姿をふと見れば、母曰くの「粗暴」そのもの。乱れた髪は硬くてなかなか整わないし、金色の目玉はぎょろりと大きく、落ち着かない。おまけに牙は、他の白虎族の平均よりも少しばかり鋭く長いものだから、たいていの若い女には、初対面では怯えられていた。同じ白虎族ですらそうなのだから、他の種族の女とは、話したことすらない。嫁取りもできないだろうと思われていたのは、業腹だが。

 よく言えば野性味があるんだけどなあ、と首を捻っていると、再び母の声がする。

「琥珀! 何をしているの?」

 これ以上待たせるのは得策ではない。

 琥珀は「ふええい」と、気のない返事をした。




 食堂に向かうと、何やら中で揉めている気配がした。面倒だ。だがここで入らないと、朝食をなしにされるのは目に見えている。嫌々ながら入り口をくぐると、すでに食後の茶を啜っている紫嵐に、父が懇々と説いている。全力で回れ右をしていなくなりたかったが、父の方が早かった。

「ああ、琥珀。お前も紫嵐様を説得しておくれ」

 懇願の矛先を向けられ、座らされる。卓には女中によって朝粥が運ばれてきて、いい匂いがしている。紫嵐がこの家に来てよかったことと言えば、食事が向上したことである。しっかりと帆立の貝柱を干したもので出汁を取っているのが、香りからもわかる。これまでは薄い塩味で、具もほとんどなかった。

 一匙掬ってから、琥珀は父の話を聞く。

「は? この家を出ていく?」

「そうなんだよ、琥珀。紫嵐様は旅に出るというんだ。最近流行り始めた、新婚旅行というやつじゃなくてね」

 口に入れた米を噴き出しそうになって、琥珀は慌てて手で押さえた。火傷した唇がびりびりする。男同士で新婚旅行など、奇異の目で見られるだけだ。行くもんか。

「もともと私は、旅の途中だったのです。養生させてくださったことは、感謝しております」

 最後の一粒まで米を食べきって、琥珀は紫嵐を観察する。茶のお代わりまで頼んでいる。女中は目を蕩けさせ、茶器を持つ彼の手に偶然を装って触れている。面白くないのは、彼女は自分に対しては一切そのような反応を示したことがなかったからだ。

「しかしですね、紫嵐様。旅は危険でしょう。また今回のような怪我をする可能性もあります。うちは腐っても、王家の血を引く家ですから、そこそこは安全かと」

 父もわかっていた。単純な事故で、青龍族の頑健な肉体があそこまでぼろぼろになることはない。同族による攻撃でしかないのだと。道中で多勢に無勢、再び襲撃に遭うことがあれば、今度こそ命を落とすかもしれない。

 両親は、すっかりこの男を息子の婿殿と受け入れている。家族は仲良く一緒に暮らすもの。だから出て行ってほしくないのだ。

 あれ? そういえばこいつ、旅に戻るというけれど、曲りなりにも婚姻関係を結んだ俺のことは、どうするつもりなんだろう?

 新婚、即別居は清々して大歓迎だが、長老のところはうるさそうだ。琥珀の身持ちが悪いだとか、根も葉もない悪い噂を流されそうな、嫌な予感がする。

 置いていくにしても、紫嵐から直接、街の人間に話をしてもらおうと勝手に得心していると、「琥珀」と、紫嵐から声をかけられた。

「少し、話がある」

 顎をしゃくり、父の前ではできぬ相談であることを言外に示す。琥珀は慌ただしく茶を飲み干し、粥で負った火傷をさらに悪化させるが、顔には出さずに立ち上がり、彼の後をついて食堂を出る。

 おそらく旅についての話であろう。お前は置いていくと言ってくれるだけでいいのに、父には内密な相談があるとは、これいかに。

 紫嵐の部屋として調えられた客間に入り、扉を閉じる。すると単刀直入、紫嵐は命令した。相談や依頼ではない。

「琥珀。お前は私と一緒に来い」

 想像とは真逆のことを言われ、琥珀は承服しかねる、と眉の動きで不満を露にした。別に好き合って成立した関係ではない。婚姻の形態は様々で、それこそ王族、貴族であれば、同居しない形の夫婦なんて、腐るほどいるだろう。両親が揃っていて、しかもずっと相思相愛でいちゃついている琥珀の家の方が珍しいくらいだ。

 旅についていかなければならない必然性がなければ、徹底抗戦だ。結婚は自分にとって大譲歩だった。居心地のいい家から出たくないのだ。

 琥珀は断りなく、寝台にぼすん、と腰を下ろした。紫嵐は文句を言わない。ただ、感情のない静かな目を向けるだけである。

 彼は窓の外を見やる。庭には、女中たちに混じって洗濯をしている母がいる。楽しそうな笑い声に、紫嵐は眉根を寄せる。

「ここにいれば、お前の両親の命も危険にさらされると言ったら?」

 物騒な物言いに、琥珀は驚いてなにも言えなかった。

「お前も義父上も、わかっているんだろう? 私の傷は、同胞、青龍族につけられた傷だということは」

「それは、まぁ。でもなんで、あんただけじゃなくて、俺たちまで?」

 察しの悪い琥珀に、紫嵐は舌打ちをした。上品な顔立ちに似合わぬ粗雑な態度に息を飲む。紫の目に射すくめられて、琥珀は一生懸命に考える。だが答えが出る前に、紫嵐が説明を始めてしまった。考えても無駄だと判断されたのが悔しい。

「私の名は、『紫』嵐だ。他の兄弟たちには、色の名前を持つ者はいない」

 四神の血を引く四種族にとって、名前は一定ではない。力を認められた者は、少年期に色の名前を与えられる。特に、種族の色彩――白虎族なら「白」だし、青龍族なら「青」――を王に承認された子どもは、いずれ国を背負って立つ存在と目される。

 琥珀も、その腕っぷしのよさを考慮され、少年時代は白蓮の名を賜っていた。

「本当は、青嵐せいらんと名づけられるはずだった。しかし、母以外の妃たちの猛反対に合い、父王は諦めたのだ」

 そこから読み取れるのは、確執、後継者争い。生まれ順も五番目で、かつ母親の実家の位もあまり高くない紫嵐が青を戴くことで、他の妃たち、王子たちは危機感を覚えたのだ。

 第五王子をのさばらせては、いけない。

「それからは、政争に巻き込まれる日々だ。母は病気で死んだことになっているが、嘘だ。毒で殺されたのさ。誰かに金を握らされた女官によって」

 周囲のすべてが敵といっても過言ではない。そのような過酷な環境で育った紫嵐は、それでも立派に成長した。

 それこそ王者の風格すら漂うほど。

 本人にその気はなくとも、貴族の中には、紫嵐を推す勢力もある。成人前に始末することができなかった彼の兄弟や、その母親の実家は焦る。

「そして私は命からがら追放された、というわけだ」

 ここまでの人生、筆舌尽くしがたい苦難も多くあったに違いない。そのひとつひとつを説明することなく、紫嵐は一言でまとめた。

 彼らは憎き第五王子の死を、その目で確かめたわけではない。深手を負った状態で飛び去ったから、どこぞでのたれ死んでいることを期待したが、実際、彼は生き残った。

 善良な砂流の人間たちの知るところとなって。

 長老一族ですら、代表者然としていても、貴族ではない。腹芸を知らないのだ。

 ……もしも紫嵐を追いかけてやってきた刺客が、この街までたどり着いたら。

「でも、どうして俺の家族まで」

「どうして? そんなの決まっている。私と契りを交わしたのは、お前だ。男同士だとか、そんなことは関係ない」

 第五王子と深い関係になった者は、本人と同等として、標的に加えられる。

「この場にお前が留まれば、確実に両親まで殺される。言い含めて一緒に旅に出れば、少なくとも命までは取られないだろう」

 腐っても、白虎王の血族なのだろう?

 同じ王族という括りであっても、自分と紫嵐では、隔たりがある。彼の前で王族だと名乗るのが恥ずかしい琥珀は押し黙る。 

「さすがにあいつらも、今すぐ侵略戦争を仕掛けるつもりはない。私を推しているのが穏健派だからな。私を殺し、そいつらを駆逐してからでなければ、戦はできまいよ」

 だから、紫嵐たちが向かった場所を嘘いつわりなく明かすように説得しておけば、殺されることはないというのだ。

「けれど、伴侶のお前はだめだ。何をしても、殺される」

「……」

 互いに命を懸けて愛し合っているわけではないのに、どうして命を狙われなければならないんだ。

 琥珀は憤ったが、口や態度に出して当たり散らさなかった。

 自分の都合よりも、紫嵐の過去と現在、それから未来の方が、よっぽど心に痛かったのである。

 半分とはいえ、血を分けた兄弟たちに妬まれ疎まれ、暗殺未遂はきっと片手の指では足りない。母親は実際に殺されているのだ。信頼できると思ったそばから裏切られ、いつしか彼はひとりぼっち。

親として唯一頼ることができるはずの父王は、抑止力にはならない。どころか、青嵐を諦めても、「紫」という青に近い色を選ぶあたり、争いを煽っている節すらある。

 琥珀の生い立ちとはまったく違う、正反対と言ってもいい、過酷な生活が容易に想像できた。

 現在の白虎王やその妻、息子たちは、皆優しかった。末端の、遠縁に過ぎない子どものことも可愛がってくれた。琥珀が事件を起こして白蓮の名を取り上げられ、都から出ていくときも、別れを惜しんでくれた者もいる。

『やってしまったのはよくないことだが、どうか琥珀、その気持ちを忘れてはならないよ』

 新しい名前をくれたのも、実の祖父よりも親しみを込めて琥珀の名を呼んでくれた白虎王であった。

 政争に直接関係をしない琥珀には、第五王子の重責など想像もできない。だが、どれほど身分が高くとも、誰からも愛されないのは、哀れだと思う。

 ――しかも、結婚する機会すら、俺が奪ってしまったんだよな。いや、俺じゃなくて、そこに攻撃を当てた奴が一番悪いんだけど。

 それでも、とどめをさしたのは自分であることを初めて自覚して、琥珀は勢いよく立ち上がった。

 突然のことだったので、紫嵐が表情をわずかに変える。驚いているところを、初めて見た。

「わかった。俺はあんたについてく」

 胸を張って親指で心臓の辺りを指した琥珀は、紫嵐に同情しているなどと一切見えないよう、彼からは不敵だと、不敬だと感じられるよう、強気に笑った。

「勘違いするなよ。なに、旅をしながら、お前との関係を解消する手立てを探すんだからな」

紫嵐の表情が揺れたのは先ほどの一瞬だけで、今はもう、どこを見ているのかもわからない、遠い目で「それでいい」と言うだけだった。

 旅の途中で、必ず大笑いさせてやるからな。

 無表情は面白くない。琥珀はあてのない旅の目的をひとまず定め、尻尾を揺らした。

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