アンタレスの炎

濡れ鼠

アンタレスの炎

雨粒が屋根にたたきつけられ、流れ落ち、それが絶え間なく繰り返される。私は心を先ほど切ったばかりの電話に向けていて、しかし両耳は雨音に支配されていた。電話は、夫の職場からだった。

体育館の脇を、低くうねるようなサイレンが通り過ぎる。地響きのような走行音が、冷たい床を震わせる。赤色灯の光は、ここまでは届かない。

「パパかな」

娘のガラス玉みたいな瞳が私を見上げる。

「そうかもね。パパ、今頑張ってるから」

心臓の鼓動に併せて、声が揺れてしまう。幸い、娘はもう私を見ていない。

「パパ、頑張れ!」

娘が駆け出すので、私は慌てて追い掛ける。みんながテレビの前に集まっていた。誰しもが、眉間に深い皺を刻んでいる。薄茶色の水の塊が、車を、橋を、木々を、取り込んでいく。私は思わず目を伏せる。

「本、読んであげるから。戻ろ」

私は娘の手を取り、荷物のところに引き返す。ボストンバッグから、おととい宮沢賢治記念館で購入した『銀河鉄道の夜』を探し当てる。この本を選んだのは、夫だ。娘の手を握りしめ、本を開く。そうでもしないと私は、ここに座ってはいられない。


―そしてほんとうにそのまっ赤なうつくしいさそりの火は音なくあかるくあかるく燃えたのです。―

(宮沢賢治『銀河鉄道の夜』より)


気付けば、娘は寝息を立てていた。娘にはまだ、難しかったろう。私は朗読をやめ、目で文字を追い続ける。ページが上手くめくれない。ジョバンニに夫の声を重ねる。ジョバンニの緑いろの切符を、どこまででも行ける切符を、夫の手に握らせようとする。煌々と赤い光を放つアンタレスが、私たちの頭上で身を焦がしている。


―カンパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。―

(同前)


いつの間にか雨垂れの音は鎮まっていて、テレビの方から、ざわめきが聞こえる。私は痛む膝を伸ばし、テレビの前に歩み出る。

濁流の中に、真っ赤な車体が横たわっていた。片目で恨めしそうに、空を見上げている。燃え尽きた赤色灯には、泥が絡まっている。液晶画面がぼやけて、私は手に残された緑いろの切符を握りしめたまま、テレビの前に膝を落とした。

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アンタレスの炎 濡れ鼠 @brownrat

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