第9話 卍の渦 - プラカノンの呪われた本

私の指先が、古びた本の表紙をそっと撫でた。プラカノンの市場近くの古いホテルの一室。窓の外では、夜の喧騒が微かに聞こえる。部屋の隅には、黄ばんだ古い扇風機が置かれていた。羽根は錆び付き、歪んでいる。誰も使っていないはずなのに、時折かすかに回るような気がした。


本の著者の名前に目が留まる。奇妙な名前だ。姓と名の間に、不釣り合いなほど大きな卍の文字が踊っている。疲れた目をこすりながら、私はページをめくり始めた。文字が踊り、意味をなさない言葉の海に溺れそうになる。そして、気がつけば意識が朦朧としていた。


その時、扇風機が突然動き出した。電源は入っていないはずなのに、軋むような音を立てながら、ゆっくりとした回転を始める。黄ばんだ羽根が不規則に回り、歪んだ影を壁に映し出す。私は背筋が凍る思いがした。


「すべては夢なのだろうか」

その思いが頭をよぎった瞬間、目の前で異変が起きた。本の中央に鎮座する卍の文字が、扇風機の回転に合わせてゆっくりと回転し始めたのだ。


初めは微かな動きだった。しかし、その回転は次第に速度を増していく。扇風機の回転も加速し、軋む音は金属が悲鳴を上げるような音へと変わっていった。私は恐怖に打ち震えながらも、目を逸らすことができない。卍は中心から黒い渦を生み出し、その渦は刻一刻と大きくなっていった。


扇風機の羽根は今や狂ったように回転している。その動きは物理法則を無視したかのように歪み、まるで生き物のように見えた。羽根の隙間からは、黒い霧のような物質が漏れ出してくる。


部屋の空気が重くなり、呼吸が困難になる。渦は本のページを飲み込み、次第に現実世界にまで及んでくる。家具が歪み、壁が揺らぐ。扇風機の回転音は耳をつんざくような金属音となり、その音は私の頭蓋骨を揺さぶるように響く。私は叫びたかったが、声が出ない。


そして突然、無数の手が闇の中から現れた。それらは扇風機の羽根の間から伸びてきた。冷たく、湿った、人間離れした感触の手が、私の体を掴み、引っ張り、押し込もうとする。私は必死に抵抗するが、力及ばず、徐々に暗黒の渦に飲み込まれていく。


意識だけが明晰なまま、この恐怖の体験を味わうことを強いられる。永遠とも思える時間が過ぎ、そして突然、すべてが止まった。扇風機の狂った回転も、耳をつんざく金属音も、すべてが静寂に包まれた。


私は目を開けた。周りを見回すと、そこは見慣れた部屋だった。プラカノンのホテルの一室。しかし、何かが違っていた。壁は以前よりも古びて見え、壁紙は剥がれかけていた。窓からは薄暗い光が差し込んでいたが、外の景色は霧に包まれ、何も見えない。


ベッドの上には、あの奇妙な本が開いたまま置かれていた。部屋の隅の扇風機は、まるで何事もなかったかのように静かに佇んでいる。私は恐る恐る本を手に取った。作者の名前を確認しようとしたが、そこにはもはや名前はなく、ただの空白のページが広がっていた。卍の文字も消え失せていた。


突然、部屋の隅に人影が見えた。私は驚いて振り向いたが、そこには誰もいなかった。しかし、確かに誰かの気配を感じる。それは部屋の中を漂い、徐々に私に近づいてくるようだった。扇風機が再び、かすかに動き始める。


「誰かいるんですか?」私は声を振り絞って尋ねた。


返事はない。しかし、部屋の温度が急激に下がり始めた。息が白くなり、肌に鳥肌が立つ。扇風機から発せられる冷たい風が、部屋中を渦巻いている。そして、私の目の前に霧のような形が現れ始めた。それは人の形を取り始め、やがて一人の老人の姿となった。


老人は私を見つめ、口を開いた。「お前は我々の世界に足を踏み入れてしまった。もう戻ることはできん」


私は震える声で尋ねた。「あなたは...本の作者ですか?」


老人は笑った。その笑い声は、まるで扇風機の軋む音のように不気味だった。「作者?いや、我々は作者ではない。我々はこの物語の登場人物だ。お前が読んだ本は、我々の世界への入り口にすぎない」


私は混乱した。「では、私はどこにいるんです?これは現実なんですか、それとも夢?」


「現実と夢の境界線など、もはや意味をなさない」老人は答えた。「お前は今、物語の中にいる。そして我々は、新たな章を書き始めようとしているところだ」


その瞬間、部屋全体が揺れ始めた。壁が溶け出し、床が波打ち始める。扇風機は再び狂ったような回転を始め、その羽根は歪んだ影を壁一面に投げかける。私は恐怖に駆られて叫んだが、声は虚空に吸い込まれていくようだった。


そして、私は再び暗闇に包まれた。しかし今度は、その闇の中に無数の光る点が見えた。それは星のようでもあり、また何かの目のようでもあった。私はその中を漂いながら、自分の意識が徐々に拡散していくのを感じた。


気がつくと、私は街の上空を飛んでいた。プラカノンの市場が見える。人々が忙しく行き交い、屋台から香ばしい匂いが漂ってくる。しかし、私には体がない。ただの意識として、街を見下ろしている。


そして、驚くべきことに気づいた。私は一人ではなかった。無数の意識が、私と同じように街の上を漂っている。それぞれが、かつては人間だった存在たちだ。彼らも同じように、あの本を読み、この世界に引き込まれたのだろう。


老人の声が、私の意識の中で響いた。「さあ、新たな物語の始まりだ。我々は永遠に、この世界の中で生き続ける。そして、新たな犠牲者を待ち続けるのだ」


私は必死に抵抗しようとした。しかし、もはや肉体はなく、ただの意識となった今、何をすることもできない。ただ、街の上を漂い、下界の人々を見つめることしかできないのだ。


そして、ある日、私は一人の旅行者が古いホテルに入っていくのを目にした。その手には、見覚えのある本が握られていた。私は叫びたかった。警告したかった。しかし、声は出ない。


旅行者は部屋に入り、ベッドに横たわり、本を開いた。部屋の隅では、例の黄ばんだ扇風機が静かに待ち構えている。私は恐怖と共に、この悪夢のような循環が再び始まるのを見守るしかなかった。


そして私は気づいた。これこそが、真の恐怖なのだと。永遠に続く物語の中で、新たな犠牲者を見つめ続けることの恐ろしさを。我々は永遠に、この物語の中で彷徨い続ける。そして、いつか誰かが、この呪われた本を閉じ、物語を終わらせてくれることを願い続けるのだ。


今でも、プラカノンの古いホテルの一室には、黄ばんだ扇風機が置かれている。夜になると、誰も触れていないのに羽根がゆっくりと回り始める。そして新たな旅行者が、あの呪われた本を手に部屋に入ってくるのを待ち続けているのだ。


扇風機の軋む音は、永遠に続く物語の序曲となって、プラカノンの夜に響き渡る。

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プラカノン卍スパイラル 中村卍天水 @lunashade

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