第2話 魂の渦 - プラカノン運河異聞

プロローグ:灼熱の予感


1960年8月、バンコク・プラカノン運河。

真夏の太陽が容赦なく照りつける中、運河の水面が不気味な輝きを放っていた。サオワパーは、古びた木造家屋の中で、うだるような暑さと戦っていた。


その時、彼女はまだ知らなかった。この灼熱の夏が、彼女の人生を永遠に変えてしまうことを。そして、ある白髪の外国人が遺した「何か」が、彼女の運命を狂わせることになるとは。


第一章:青い光のカブトムシ


それは、庭先で見つけた一匹のカブトムシから始まった。


普通のカブトムシとは明らかに違っていた。その甲羅は青白い光を放ち、まるで異次元から来たかのような輝きを持っていた。後になってわかることだが、このカブトムシは、クラウス・シュミットの実験によって生まれた時空の歪みの産物だった。


極度の空腹と疲労に苛まれていたサオワパーは、思わずそのカブトムシを口に入れてしまう。その瞬間、彼女の意識が激しく揺れ動いた。頭の中で、見知らぬ言語の断片が響き始める。それは、かつてクラウスが唱えた「死者の書」の呪文だった。


第二章:歪んだ現実


その日から、サオワパーの知覚は歪み始めた。

最初に現れたのは、古い扇風機の幻影だった。黒く錆びた羽根には、奇妙な模様が刻まれている。それは卍の形を歪めたような、得体の知れない印だった。


幻の扇風機は、彼女に語りかけた:

「我々は風の精霊...いや、それ以上の存在だ...」


その声は、どこか懐かしく、しかし同時に底知れない恐怖を伴っていた。扇風機の羽根が回るたびに、現実が少しずつ崩れていく。時には、白髪の老人の姿が見える。彼は何かを必死に探しているようだった。


第三章:運河の底から


ある夜、サオワパーは運河からの囁きを聞いた。


水面下から這い上がってくる影があった。それは人の形をしているようで、しかし完全な人の姿ではなかった。触手のような付属物を持ち、青白い光を放っている。


「来なさい...私たちの世界へ...」


その声は、扇風機の回転音と共に響いてきた。サオワパーは、自分が何かとても大きなものに巻き込まれていることを悟り始めていた。


第四章:赤ん坊との別れ


現実と幻想の境界が曖昧になる中、サオワパーは我が子の存在すら忘れかけていた。


「子供はもういらない...我々がいれば十分...」


扇風機の声は、次第に支配的になっていく。赤ん坊は高熱に苦しみ始めた。その熱は、異常なまでに高かった。まるで、別の次元からの熱が、小さな体を焼き尽くそうとしているかのように。


ある夜、赤ん坊は息を引き取った。その瞬間、部屋中の空気が凍りつくような冷たさに包まれた。扇風機の羽根が、狂ったように回転を始める。


第五章:時空の交差


サオワパーの意識は、次第にクラウスの残した実験の痕跡と交差し始めていた。


彼女の見る幻影は、クラウスが開いた時空の裂け目から漏れ出した現実の断片だった。扇風機は、二つの世界を繋ぐ門として機能していた。

運河の水面には、異形の存在たちの影が映り込む。それらは、クラウスが召喚した存在たちと同じものだった。過去と現在が、扇風機を介して繋がっていく。


第六章:最後の風


高熱に苦しみながら、サオワパーは最後の幻影を見た。


白髪の老人が、必死に何かを止めようとしている。彼の前には、巨大な扇風機が置かれている。その羽根が回るたびに、世界が歪んでいく。


「これを止めねば...」


老人の叫び声が聞こえた瞬間、全ての幻影が一斉に消えていった。サオワパーの意識も、永遠の闇の中へと沈んでいく。


第七章:帰還


戦争から帰還したソムチャイは、妻と子の死を知らされる。


家に戻った彼は、奇妙な青白い光に包まれた扇風機を見つける。その前で、サオワパーの幽霊が立っていた。彼女の周りには、かすかに光る風の渦が見える。


「なぜ私たちを置いて行ったの?」


その声は、サオワパーのものでありながら、どこか別の存在の声のようでもあった。


エピローグ:永遠の渦


現在でも、プラカノン運河では奇妙な現象が続いているという。


夜になると、運河の上で青白い光の渦が見えることがある。その中には、時折、扇風機の形が浮かび上がる。そして時には、白髪の老人と若い女性の影が、水面に映り込むという。


二つの魂は、永遠に運河のほとりをさまよい続けている。彼らは、時空の歪みによって引き裂かれた世界の証人として、今もなおそこに存在しているのだ。


人々は、その場所を避けて通る。なぜなら、あの扇風機の羽根が回るたび、現実が少しずつ歪んでいくからだ。そして、その歪みの中から、異形の存在たちが這い出してくるかもしれないという恐怖が、今でも人々の心の中に残されているのである。

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