第3話 時空を超えた悲劇
プロローグ:交差する運命
1960年、バンコク。
時は重なり、運命は絡み合う。この物語は、三つの魂が一つの呪われた扇風機によって結ばれる、慟哭の記録である。
第一章:アキラ・ナカムラの調査
私、アキラ・ナカムラは、プラカノン運河沿いの古びたアパートで起きた連続失踪事件の調査に没頭していた。日本人の血を引くタイ人作家として、この事件に惹かれずにはいられなかった。
最初の犠牲者は、日本人実業家の大田太郎。「横綱不動産」の社長である彼は、タイの庶民の生活を理解するため、あえて古いアパートに住んでいた。しかし、ある日の深夜、彼の部屋から異様な叫び声が聞こえた。翌朝、太郎の遺体が階段下で発見される。目撃者の証言によると、彼は何かに追われるように走り、転落したという。そして、彼の部屋には一台の古い扇風機が残されていた。
二番目の犠牲者は、アメリカ人バックパッカーのジョン・スミス。彼は太郎の死に興味を持ち、同じ部屋を借りた。その夜、アパートの住人たちは、ジョンの部屋から奇妙な音楽が聞こえたと証言している。それは扇風機の回転音に、古代タイ語の詠唱が重なったような音だった。翌朝、部屋から見つかったのは、壁一面に描かれた古代タイ文字と、静かに佇む扇風機だけ。ジョンの姿は消えていた。
第二章:クラウスの実験
同じ頃、運河沿いの古道具屋で、もう一つの物語が動き始めていた。
クラウス・シュミットは、かつてナチスの秘密結社「アーネンエルベ」で量子物理学の研究に携わっていた科学者だ。1945年、多くの同僚がニュルンベルク裁判の被告人となる中、彼は極東への逃亡を選んだ。そして、この混沌としたアジアの街で、彼は驚くべき発見をする。
古代タイの僧侶たちが残した経典の中に、時空を操る術の記述を見つけたのだ。クラウスは、量子力学の理論とその呪文を組み合わせ、扇風機型の「時空間転移装置」を完成させる。しかし、その実験は予期せぬ結果をもたらした。
装置が起動した瞬間、運河の水面から無数の異形の存在が這い上がってきた。それは人の形をしているようで、しかし明らかに人ではない。漆黒の体表からは青白い光が脈動のように明滅し、触手のような腕が蠢いている。クラウスは恐怖に打ちのめされた。彼は自分が時空の境界を破壊し、人知を超えた何かを解き放ってしまったことを悟る。
第三章:サオワパーの悲劇
運河沿いに住む若き母、サオワパー。彼女は極度の貧困に苦しんでいた。夫のソムチャイは徴兵され、幼い赤ん坊との二人暮らし。ある日、庭で青い光を放つカブトムシを見つける。空腹に耐えかねた彼女は、それを口にしてしまう。
その瞬間から、彼女の世界は歪み始めた。耳元で古代タイ語の囁きが響き、目の前では存在しないはずの扇風機が踊るように回転する。それは、クラウスの実験が呼び覚ました異形の存在たちが放つ幻影だった。
赤ん坊は原因不明の高熱に襲われ、その体温は時空の歪みと共に上昇を続けた。「ママが守ってあげる」という言葉も空しく、幼い命は消えていく。死の瞬間、部屋中が青白い光に包まれ、サオワパーの魂も、異形の存在たちの世界へと吸い込まれていった。
第四章:ポンおばさんの秘密
私の調査は、アパートの管理人であるポンおばさんへと向かう。彼女は、この建物の歴史を知る唯一の証人だった。
「あの扇風機には、呪いが宿っているのです」彼女は震える声で語り始めた。「1950年代、私にも恋人がいました。中国系タイ人の青年でした。しかし、彼は私の日本留学を阻止しようとして...」
その夜の出来事を、彼女は涙ながらに告白する。暴力を振るう恋人を、扇風機で打ってしまったこと。そして恐怖のあまり、祖母から教わった古代の呪文を唱えてしまったこと。その瞬間、恋人の体は消失し、扇風機に魂が封じ込められた。
第五章:真実の収束
全ては繋がっていた。ポンおばさんの呪文が、クラウスの実験装置と共鳴し、時空の歪みを生み出していたのだ。異形の存在たちは、その歪みから生まれた魂たちの集合体。太郎、ジョン、サオワパー、そして幼い赤ん坊の魂も、その中に取り込まれていた。
クラウスは、自らの罪を償うため、最後の実験を決意する。「これを止めなければ」彼は扇風機のスイッチを逆に回した。時空の歪みが反転を始め、全ての魂が解放されていく。しかし、それは同時に彼自身の消滅をも意味していた。
エピローグ:永遠の警告
現在のプラカノン運河。月明かりに照らされた水面には、時折、奇妙な影が映る。白髪の老人、若い母子、そして失踪した人々の姿。彼らは今も、永遠に運河のほとりをさまよっているという。
この物語を書き記しながら、私の部屋の扇風機も静かに回っている。その音は、どこか人の囁きのようにも聞こえる。もし、あなたが古い扇風機を見つけることがあれば、決してスイッチを入れてはいけない。そして、夜に聞こえる囁きの誘いに、耳を貸してはならない。
なぜなら、プラカノン運河の水底には、まだ新たな犠牲者を待ち続ける何かが、潜んでいるのかもしれないのだから。
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