プラカノン卍スパイラル
中村卍天水
第1話 悪魔の風 - Der Teufelwind
プロローグ:バンコクの影で
1960年、バンコク。
喧騒から離れた路地裏に、一軒の古道具屋が佇んでいた。看板すらない、名もなき店。しかし、その扉を開ける者たちは、単なる骨董品以上のものを求めてやって来るのだ。
店の奥に座る白髪の老人は、かつてナチスの秘密結社「アーネンエルベ」の上級研究員、クラウス・シュミットだった。1945年、多くの仲間たちがニュルンベルク裁判の被告人となる中、彼はひとり東へと逃亡。そして、この混沌としたアジアの街に辿り着いたのである。
第一章:扇風機の真実
クラウスの机の上には、一台の古びた扇風機が置かれていた。黒く錆びついた羽根には、かすかに卍の形が浮かび上がっている。これは単なる扇風機ではない。「死者の書」に記された古代の呪文と、量子力学の理論を組み合わせて作られた、「時空間転移装置」なのだ。
「もう時間がない」とクラウスは呟いた。彼の皺だらけの手が、扇風機のスイッチに伸びる。カチリという音と共に、羽根が回り始めた。
最初は緩やかな回転だった。しかし、次第にその速度は増していき、やがて目で追えないほどの速さになった。部屋の空気が歪み始め、壁に掛けられた時計の針が狂ったように回転を始める。
「来たか...」
扇風機の前面に、青白い光の渦が現れ始めた。その中心から、異形の存在が這い出してくる。触手のような付属物を持つその姿は、人知を超えた恐怖そのものだった。
第二章:運命の交差点
同じ頃、プラカノン運河では別の物語が始まっていた。
サオワパーは、庭で見つけた青い光を放つカブトムシを口にした瞬間、世界が一変するのを感じた。彼女の目の前で、古い扇風機が踊るように回転し始めた。しかし、その扇風機は現実には存在しないはずのものだった。
羽根が回るたびに、サオワパーは奇妙な幻覚を見るようになった。そこには、白髪の外国人老人の姿があった。彼は何かを必死に探しているようだった。
「私の研究...私の扇風機を返してくれ」
その声は、まるで時空を超えて響いてくるかのようだった。
第三章:悪魔の風
クラウスの店で起きた出来事は、バンコク中に衝撃波となって広がっていった。
扇風機から放たれた「悪魔の風」は、プラカノン運河の水面を渡り、サオワパーの幻覚と共鳴し始める。彼女の見る幻影は、次第にクラウスの実験と結びついていく。扇風機は、二つの物語を繋ぐ架け橋となっていたのだ。
運河の底からは、異形の存在たちが這い上がってきた。その姿は、クラウスが召喚した存在と酷似していた。過去と現在、幻想と現実が、扇風機を中心として混ざり合っていく。
第四章:贖罪の時
クラウスは、自分の実験が引き起こした悲劇を目の当たりにする。サオワパーの狂気、運河の怪異、そして世界の歪み。全ては彼の研究がもたらしたものだった。
「これを止めねば...」
老科学者は、最後の決断を下す。扇風機のスイッチを逆に回すと、時空の歪みが反転し始めた。サオワパーの幻覚も、運河の怪異も、全てが元の場所へと戻っていく。
しかし、それは同時に、クラウス自身も消滅することを意味していた。
エピローグ:風の記憶
現在のプラカノン運河。
時折、夜風に乗って奇妙な音が聞こえてくるという。それは扇風機の回る音なのか、それとも誰かの嘆きなのか。
運河の水面には、今でも時折青白い光が映り込む。そこには、白髪の老人と若い女性の姿が映っているという。二つの魂は、永遠に運河のほとりをさまよい続けるのだろうか。
誰も、その答えを知らない。ただ、暑い夜に不思議な風が吹く時、人々は運河に近づくことを避ける。そこには、まだ「悪魔の風」の痕跡が残されているのかもしれないからだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます