第3話

 夕飯の後は、課題などやる気は起こらない。いつもならスマホをいじるか、お気に入りのアニメでも見ているこの時間に、僕は現国の教科書を眺めている。といはいえ、正確には瞳さんの表情を観察していた。数学の図形問題を解くときのようにあちこち角度を変えながら見つめていると、少し瞳さんの表情が理解できたように思えた。彼女の表情は、遠くを見つめているようだがそうではなく、目の前の何かを受け入れようとしているのではないか。驚きというよりも何か知らなかったことに気がつき、それに憧れている表情。そんなシーンに見えた。


 瞳さんはきっと、目の前の何かに心を奪われているのだ。それが何かを知りたい。


(やはり千夏に、このイラストのことを聞くしかない)


 僕はノートに文字をつむいだ。


『あなたは、何を見ている?』



 翌日、事態は僕が思う方向より斜め上からやってきた。千夏の方から教室にやってきたのだ。


「現国の教科書を貸してくれない?」

「分かったよ」


 あっさりと返事をしたせいなのか、千夏は少し驚いていた。差し出した教科書を受け取ると軽く頭を下げ、周りの注目を浴びながら出て行った。


(これでイラストについて話すきっかけができた)


 千夏が現国の授業を受けているころ、僕は数学の授業を受けていた。iアイ二乗じじょうがどうのこうのと黒板に計算問題の解答が書き込まれていくなか、千夏にどう話を切り出そうかとずっと考えていた。素直に瞳さんのことを聞けば案外すんなりと答えを得られるかもしれないが、千夏の勘の鋭さを知っているがゆえに思い留まった。なにより、演劇事件で千夏に振り回された過去がトラウマになっていることが大きい。それでも千夏から瞳さんの情報を聞こうと、こうやって踏み込んでいく僕は、本当に別人のようであった。


 四時限目の終了を伝えるチャイムが鳴ると昼休みだ。千夏が来るのがこのタイミングだと有り難い。教室では弁当を広げる生徒や、購買に買いに行く生徒、中庭で食べようとグループで出て行く生徒もいる。僕は登校時に買ってきたパンを取り出し、一口かじった。机の上にあるフルーツオーレの紙パックに影がかかった。見上げると千夏が立っている。


(都合が良すぎるほどいいタイミングだ)


 心の中で順調な滑り出しを喜んでいた。


「これ、ありがとう」

「うん。いいよ。昼は食べたの?」

「まだよ。眠くなるから、昼はあまり食べないの」

「ふーん。なあ、清水(きよみず)はイラスト上手いんだな」


 滅多に口にしない名前を呼んだ自分に身震いした。


「ありがとう」

「あのイラスト、誰かモデルがいるのか?」

「いるわよ」


 会話は、僕のイメージどおりに自然に流れている。


(そう、この調子だ。あくまでも千夏のイラストに興味を持っていることに徹すればいい)


 千夏は疑った表情なく答えていた。


「えっ、じゃあ授業中に見ながら描いたのか」 

「違うよ。イメージしながら描いたの。でも、モデルはいるよ」

「そうなんだ。それにしてもイメージだけでよく描けたな。すごいよ」

「気になる?」


 千夏の方が一枚上手だった。攻守が逆転し、返事に困った。あくまでもイラストが気になると言えば良かったが、そんな気の利いたお芝居をすることはできなかった。なにより心が瞳さんを気にしろと訴えている。


「うん」


 グルグルと頭の中で返事を考え抜いた結果、出てきたのがこの二文字だった。完敗である。演劇のトラウマが蘇ってきた。千夏のペースに飲み込まれ、役を変更させられた光景が浮かんできたのだ。


「そう言ってもらえると助かる」


 僕の返事を聞くともう用は無いという感じで、教室を出て行こうとしている。振り向く瞬間、千夏がホッと気を緩めて笑っているように見えた。


(何だったんだ。変なこと言ってたよな)


 千夏の言葉が引っかかっていた。その理由は午後の授業開始と同時に分かった。現国の教科書を開くと、瞳さんはそこにいてはくれなかった。千夏が瞳さんを消したのだ。いや、千夏が描いたのだから消すのは当然かもしれない。でも突然の別れは、僕を動揺させるには十分な事件だった。ポッカリと何かが抜けた跡が心に残った。薄く残っているイラストの跡を必死に頭で補完ほかんしながら、瞳さんを描いた。悔しいが、生みの親である千夏が描いた瞳さんとは別人になってしまった。落胆する僕の目にページ下の文字が映し出された。


【もし、彼女が気になるのなら放課後図書室へ】

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