第7話 グレゴリウス

 空が青みを増し、風が柔らかくなってきて、本格的な春の気配が野山に漂うころ。

 最近のユーゴは村に用事があることが多く、留守がちだった。

 別に俺は構わないが、あまりに忙しそうなので事情を訊くと、ユーゴは困り顔で「出産が近い村人がいて……」と答えた。

「元の世界では妊婦さんが身近にいたことなかったので、日ごとにエックスデーが近づいてきて俺も正直ビビってるんですけど、しばらく空いた時間はそばについててほしいって頼まれて」

 何気ない風に説明された内容に、俺は一瞬固まった。

「………………え、その母親に?」

「え? あ、いえ、頼んできたのは父親のほうですね」

「……あーうん、だよな?」

 あははと笑って誤魔化すが、肝にひやりとするものがあったのは事実だ。

 逆算すればあり得ないことだと分かってはいても、お前その妊婦の何なんだよと混乱してしまった。

「初産でどっちもめちゃくちゃ不安がってるんですよ。母親のほうはいま情緒がヤバくて気分転換したくても体調的にできないし、父親はどうにかして奥さんの気を紛らわせてやりたいけどもう自分ひとりでできるネタは尽きちゃったんで、俺や他の友人にまで助けを求めだした感じです」

「……なるほど。おもしれーっつか、仲いい夫婦だな、そいつら」

 思えばユーゴは人間の女性と付き合っていたと言ってたし、こっちの世界でも妻を持つこと自体はできるわけだ。それで子どもを作れば当然うちの領民が増えることにもなる。

(同じ種族なら寿命の問題もないし、俺が生きてさえいれば、家族ともども生涯守ってはやれるんだよな)

 残念ながら今は薔薇星室の存在に脅かされている身だが、そこをクリアする手を思いつきさえすれば、吸血鬼の在り方を変えるという夢は叶えられないとしても、俺の寿命が尽きるまではユーゴの子孫まで普通の村人としてこの領地で守ってやれるだろう。

(もしかしたらそれくらいがちょうどいいのかも。吸血鬼と人間なんだ、実際付き合ってみたらやっぱりうまくいかなくて別れることになる可能性のほうが高いだろ。だったら最初から付き合わないのが一番じゃねーか? 気まずいことになるのは嫌だし)

 何が一番無駄がないか、ユーゴが生きていきやすいか、計算を巡らせながら俺はひらひらと手のひらを振る。

「そういうことなら行ってやれよ。こっちのことは気にすんな。いよいよ日が近づいてきたら村に泊まってきてもいいし」

 ユーゴが目を瞠る。

「いいんですか?」

「? そいつらと友達なんだろ? そもそも俺の許可が取りたくてこの話をし始めたんじゃねーの?」

 どうして急に見えない犬耳と尻尾を垂れ下げているのか分からず、俺は首をひねる。一連の会話の中に、残念そうにされるいわれはなかったはずだが。

 するとユーゴはとってつけたような笑顔を作り、

「あ、そ、そうなんですけど……すみません、じゃあ行ってきますね。許可をくださってありがとうございます、ウェイド様」

「?? おー……?」

 早口かつ足早に出掛けていったユーゴを見送った俺は、少しの間その態度の理由を推測しようとしてみたが、やめた。あいつにも人間どうしの付き合いってものがあるだろう。


 午後になり、ザロモから手紙が届いた。

 先日発送した新型抑制剤をさっそく試してみたらしく、ちゃんと効いていると書いてあった。

 俺の身体で試してから送ったので、効果があって当然だ。

 問題は老化と病に蝕まれているザロモの身体が想定通りの反応を返してくれるかという点だから、今後も定期的に経過を報せてくれるよう返信を書いた。


 夕暮れが近づいたころ、領地の結界に反応があった。

 おやと思って作業を中断し、白衣を脱いで待ち構えていると、客――――グレゴリウスがやってきた。

「いちおう見舞いに来たんだが、ぴんぴんしているようで何よりだ」

 相変わらずお耽美な輝く金髪をかき消さんばかりの陰惨なオーラで、そんなことを開口一番言ってくる。

「死にかけたと聞いていたんだがな」

 俺はお茶を出す気も失せて、ふんと不機嫌に鼻を鳴らした。

 襲撃者がおそらく吸血鬼だということはザロモとの間でのみの秘密だ。グレゴリウスはそんなこと知るよしもないので、俺がザロモの領地で手傷を負ったと聞いただけなのだろう。

「ちょっと油断しただけだ。この歳で液体生物なんかに後れを取るとは俺だって思わなかったよ」

「私の百歳下ということを考えれば順当ではないのか」

「おい、面白がるなよ」

 今はぴんぴんしていても本気で痛い思いをして死にかけ、危うい立場が続いている俺は憤慨したが、グレゴリウスはすぐには言葉を返してこなかった。

 ただ短い沈黙とともに、手の甲で頬に触れられる。

 しかしそれはほんの一瞬かすめたようなもので、今までこんな真似をされたことのない俺には困惑するほかない。

「……? 何?」

 グレゴリウスはあっさりと手を引っ込めて常の凪いだ表情のまま、「何でもない」と言う。

「……え、いやでもさ、今のはなんか……」

 何でもないって、お前特段の動機もなく他人に触れるような性格してないだろうが。

 当然引っかかるし、あり得ないことなのに、自分がユーゴに振り回されまくってまんまと好きになってしまったせいか、今の接触に変に色めいたものを感じてしまう。

 とはいえ、とっさに自分の好奇心に釣られ、要らない深掘りをしてしまいそうになったのは良くなかった。このまま感じたことをまるっと口に出していたら、お互い大やけどじゃ済まないところだ。

 俺は愛想笑いをして、

「いや悪い……えーと、もしかしてお前、最近欲求不満か? 今までがモテすぎだったと言えばそうだけど」

「そうだとしたら何なんだ?」

 間。

(や、やっぱ今日のこいつおかしいぞ?)

 茶化せばグレゴリウスも意図を察してくれるだろうと思ったのに、さらに想定外の反応が返ってきてもう訳が分からない。

 俺が半笑いのまま固まっていると、グレゴリウスがおもむろに話題を変えた。

「他にもお前の噂を聞いたが、また妙なのを側仕えにしたな」

「は? あ、ああうん……」

 俺はしどろもどろになりながらうなずいた。

「お前の人間好きは筋金入りだが、自分のほうは人間に好かれる立場ではないという事実をわきまえて、これまで従者にはしてこなかっただろう。その人間に何か特別興味を惹かれるものでもあったのか?」

「……別に、よく働くし気もつくし、便利だからだよ。ちょっと思考回路が特殊だが、なつっこい大型犬みたいな分かりやすい性格してて、後ろから刺されるってこともなさそうだからな。まぁ割と面白いやつかな。この俺でも行動の予測がつかないことがある」

「そうか、詳細な情報いたみいるよ」

 間。

(な……なんか嫌味じゃね?)

 謎が解けるどころか深まるばかりだ。

 グレゴリウスがなぜ突然とげとげしくなったのか分からず、俺は「なんで?」と内心戸惑いながらひとまず別の話題を探す。手も足も出しようが思いつけないときはもう、一時撤退しかない。

「あー……えっと、お父上は元気か?」

 露骨かと思ったが、グレゴリウスは存外素直に話をあわせてきた。

「元気だよ、この前また一件仕事が増えたが、私のほうが堪えてるくらいだ」

「堪える? お前が? よっぽど厄介な仕事なんだな」

「まあな。同僚が下手を打った尻拭いをさせられるし、近頃は散々だ」

(……こいつが弱音めいたことを吐いたのは驚きだったが、仕事の話題を振ったのは正解だったな)

 また変な空気になることもなく、しばらくいつもと変わりない雑談を続けたあと、グレゴリウスは不意に言った。

「そろそろ行く。邪魔をしたな」

 正直その言葉を待っていた。

 ずっと綱渡りでもしている気分で言葉と表情を選んでいた俺は、そうかと応じる。

「玄関まで送るよ」

「いや、いい。だが今度はその従者とやらを紹介してくれ。人間とはいえお前にそこまで言わせるやつなら一度顔を見てみたい」

 俺はぽかんと口を開けた。

 人間を認めてもいなければいつも俺の主張を矯正しようとしてくるくせに、今日のグレゴリウスは最初から最後まで意外なことを言う。

「い、いいけど、ホントに今日どうしたんだよお前……」

「別に。単なる気まぐれだが。ではまた」




「……見かけより疲れてんのかな、あいつ……」

 いくらなんでも様子がおかしい。普段のグレゴリウスを基準に考えると奇行のオンパレードだ。

 でもまあザロモとの密約も襲撃者の正体のことも広まっていないようだし、無事に帰ってくれたので、また実験に戻ろうかなと思ったときだった。

 玄関のほうからばたばたばたとものすごい勢いの足音がこちらへ迫ってきて、

「ウェイド様っっ!!!!」

「何だよもうっ!!」

 ばんと部屋の扉を乱暴に開けて、ユーゴが入ってきた。

 ものすごい接近音に気づいた時点で予想通りではあったが、それにしたって異様な剣幕に驚く。

 グレゴリウスの奇行のせいで気疲れした矢先のことで、俺ももううんざりしてるのを隠さずに詰め寄ってくるユーゴの肩を掴む。

「もう帰ってきたのか? つーか何事だよ、俺を呼ぶほど例の友達がヤバイのか?」

 しかしユーゴはぶんぶんとかぶりを振って、血走った目で玄関のほうを指さし、

「さ、さっき館を出て行った人とすれ違ったんですけど、まさかあの人とウェイド様ってお知り合いなんですか!?」

「グレゴリウスか? いいとこ知人と友人の間くらいの関係だけど……あいつがどうかしたかよ?」

 価値観が相容れないとしても、俺の領地で不用意な真似はしないと思っていたが、まさか領民とトラブルでもあったのだろうか。

 俺の答えに、なぜかユーゴは絶句した。

 この世の終わりのように視線を落として必死に考えを巡らせたかと思うと、ぐっと唇を噛みしめ顔色を蒼白にして、改めて俺を見た。


「あのグレゴリウスという人は薔薇星室の一員です!!」


「………………は?」


「その上、ソシャゲではウェイド様のような追憶キャラではなく、存命の敵キャラとして登場していたんです。次の追憶イベント『都にかかる虹』で実装される予定でした。解禁されていたプロフィールによると『虹の下、ただひとり大切な者をその手で殺め、狂気に堕ちた薔薇星室の剣士』……それがまさかウェイド様の知り合い、この時代の人だったなんて……だとしたら、前提がまるで変わってきてしまいます!!」


「……あいつが、存命?」


 俺の脳みそは全力で情報を咀嚼していた。

 ユーゴがグレゴリウスの姿を見つけてこうまで動揺している理由が、すぐさま明瞭になる。

 グレゴリウスは俺の百歳年上だ。真祖やザロモのような特異個体を除けば、約二百年後の世界でもまだ存命である確率は限りなく低い。しかもユーゴが一目見て分かるくらい今と変わりない姿のままとなれば、もはや「ソシャゲで描かれた時代は今から約二百年後である」という前提を否定したほうが理屈が通ってしまう。

 つまり、ソシャゲの時代はもっと近い未来ということになる。

 加えてユーゴはグレゴリウスが薔薇星室のメンバーだと言っている。

 そして今、俺は薔薇星室に命を狙われている可能性が高い状況だ。

 ソシャゲでは俺はすでに死んでいる。

 これらを合わせて考えれば、導き出される答えは――――

(俺がグレゴリウスに殺されるっていうのか?)


 いいや、と俺は眉をひそめる。

「まだ分からねーことがある。ソシャゲの時間軸が実はほんの近い未来で……グレゴリウスが薔薇星室だって情報が、……真実でも……、俺が薔薇星室に狙われる原因になったのがあの魔石の発見なら、お前と出会わず、魔石を使うことのなかった俺がなんでソシャゲの世界で殺されることになったんだ? それもよりによって、グレゴリウスが俺を殺したと言い切れる?」

「で、でも、そうだとしたら今までソシャゲで撒かれてた伏線に急に筋が通るんです。これまでウェイド様の死因に頑なに触れられなかったり、ウェイド様が先行実装された追憶イベントでグレゴリウスが実装予定だったり、思い出してみれば狂ったグレゴリウスがことあるごとに口にする、自分が殺した『大切な者』の特徴もウェイド様にすごく似てるし……っ」

「…………」

「クソッ、もっと考察勢の記事や動画も見とけば良かった……!」

 ユーゴが俺には分からない用語を出して忌々しげに絞り出す。

(いや、そうだ。今のは意味のない質問だったな)


 分かってる、俺のさっきの確認は時間稼ぎくらいにしかなってない。グレゴリウスが薔薇星室だなんて信じたくなかった俺は、とっさにユーゴを煙に巻こうとしたのだ。

 でも無駄だ。

 ここでは原因があの魔石か、それとも俺自身かの違いを区別することに、さほどの意味はない。ユーゴとの出会いの有無で未来が変わっていたとしても、俺は結局この世界線でも薔薇星室に目をつけられた。

 グレゴリウスがその薔薇星室のメンバーなら、どのみち彼は俺の敵だということは確定した。


「……要するにお前が言いたいのは、グレゴリウスはこの世界でも俺と敵対するし、もし俺を殺せばグレゴリウスもおかしくなっちまうってことか。俺は後半はお前の見当違いだと思うけど、前半はほぼ確定したようなもんだな……」

 俺はふうと息をつき、思い切って事実を認めた。

 見るも無惨に狼狽しきっているユーゴを見上げる。

 色んなことが突然判明して心底どうしたらいいか分からないって顔だ。

(俺だってこんなこと言いたくねーよ。でも……)

 今朝ユーゴとその家族を領地ごと守って終わるのも悪くないと考えていたばかりなのにな。

「ユーゴ、結論から言うと俺はグレゴリウスに勝てない。あいつほどの剣士が敵に回るなら、遅かれ早かれ俺は殺される」

 ユーゴがこぼれ落ちんばかりに黒い目を見開いた。

「俺が生き延びる道はこれっきり捨てる。これからはお前と領民たちを逃がすアテを作ることに全力を注ぐから、俺が死んだ後はその隠れ里を可能な限りお前が守るんだ。人間の中でそれができる可能性があるのは、俺が与えた力とソシャゲの知識を持ってるお前だけ……、っ?」

 手首に強い痛みが広がり、言葉を継げなくなる。

 人相が変わりそうなほど激怒したユーゴが、俺の手首をぎりぎりと握りしめていた。

「ユー……」

「絶対、ダメです」

 子どものように癇癪を破裂させるでもなく、一秒ごとに深くなる怒りを目に溜めて、ユーゴが俺の身体を威圧感だけで押す。

 いつも嬉しそうに世話を焼かれるばかりで、ユーゴに怒りを向けられたことなどなかった俺はうろたえ、あっという間に背中が壁に当たるところまで追い詰められた。

「グレゴリウスを殺せばいいだけの話でしょう。薔薇星室も、真祖も、あなたにはできないっていうなら俺がやります。それであなたを失わずに済むのなら――――」

「……っやめろ!」

 俺は手首を掴んでいるユーゴの手を振りほどこうとしたが、ユーゴは意地でも離さない。人間のくせに我を失って力加減がぶっ壊れているのか、暴力的にならない範囲で対抗するのは困難だろうと思われた。

「殺すなんてそんな、似合わねー言葉使うなよ! 頼むから……!」

 以前、「これとなったら死ぬ勢いでのめり込むヤバイやつだと親きょうだいにさえ避けられていた」と話していたユーゴを唐突に思い出した。

 のめり込んで突き進んで、元の世界では本当に一度死んでしまったというユーゴの激情がありありと伝わってきて、バカバカしい話、恐ろしかった。

「だいたい薔薇星室と真祖を殺すなんてお前には無理だ! 俺のことはもういいから! 物語の登場人物が、その通りの結末を迎えるだけのことだろ!?」

 俺は必死に言い聞かせる。早く納得していつものユーゴに戻ってほしかった。

(お前が不幸になる前に、諦めてくれよ)

 酷なことかもしれないが、別に「推し」とやらは人生に不可欠な家族でも親友でも恋人でもないはずだ。無数にあり得る別れのひとつだと割り切って、ユーゴにはこんな自分自身さえ蝕むような怒りや憎しみは持たずに生きていってほしいのだ。

 祈りを通り越して懇願するような思いで見つめる。

 ユーゴはくしゃりと顔を歪め、

「……そんなわけないでしょ。俺、ウェイド様のことが好きだって言いましたよね? やっぱり全然分かってない」

 唸るように言うや、ユーゴは俺の両肩を強く掴んで逃がすまいとした。勢いあまって後頭部が背後の壁に当たり、「いっ……」とつい声が出るが、ユーゴはいつものように「ごめんなさい、大丈夫ですか?」と慌てて気遣ってはくれなかった。

 ただ深く傷ついて、怒っているのが分かる。

 ユーゴは一度俺の目を真っ向から見た。泣き出しそうな顔を正面から見ることになり、分かっていたのに俺は動揺した。

 そのときだった。

 ユーゴは素早く動き、ほとんどぶつかるように俺にキスをした。

 軽くだが歯がぶつかって唇にじんと痛みが広がったのを感じた直後、俺の涙腺はいともあっさりと陥落していた。

 たった一度実力行使をしたっきりで離れていってしまったユーゴの強ばった表情と向かい合うと、またぼろぼろとあからさまな涙が止まらなくて、もう言い訳もできない。

 俺は他人とキスなんかしたのはこれが初めてだった。それもちゃんと自分が好きな相手とのキス。向こうからしてくれた。こんな状況でさえ驚きと喜びがこみ上げて感情がぐちゃぐちゃになる自分が、地団駄を踏みたくなるほどままならない。

「……いきなりごめんなさい、でも俺、全部本気ですから」

 ユーゴが親指の腹で俺の涙を拭い、緊張に震える声で言う。

「今までは正直……実際俺なんかがウェイド様に釣り合うわけがないって、現実に付き合うとか一生一番そばにいられるかとか想像するのもおこがましいと思って、中途半端な態度で自分を守ってたつもりだったんです。でも、間違ってました。釣り合ってなくても関係なかったんだ。俺はどうしてもウェイド様の全てが好きです。グレゴリウスにも、他の誰にも、あなたを渡したくない……!!」

 戒めていたものが一気に決壊したように、血を吐くようにユーゴは叫び、俺を掻き抱いた。

 まるで火のように熱い身体に包み込まれ、容赦なく伝えられる言葉のひとつひとつに嗚咽がひどくなる。

(……突き放せない)

 俺は衝動的にユーゴの背に腕を回し、抱きしめ返していた。

 それを悟ったユーゴがびくりと反応する。俺が何を言うかとまだどこかで怯えているのだ。

 崖っぷちだと思い込んでいるかわいそうな彼が、頼むから拒絶しないでくれと必死に力で従わせるかのように、無意識に腕の力を強める。

 ――――ああ、もうダメだ。

 俺は勝手にこぼれてくる涙をどうにかこらえ、ユーゴの顔を引き寄せて、痛くないキスをした。

 お返しなんだからほんの一瞬、一回だ。

 それでもユーゴははっきりと硬直した。腕の拘束が緩んだ隙に少しでも身体を離す。

「お、俺も……お前が好きだ。そうじゃなきゃ、こんなに好き放題させてねーよ……」

 嫌ならとっくにぶっ飛ばして追放してるに決まってるだろう。それくらい分かれよバカ。

 数秒のあいだ、ユーゴは口に手をやり、身震いしながら穴が空くほど俺を凝視していた。

「……ほ、ほんとにっ? それっ、本当ですか、ウェイド様?」

「……、本当だよ」

「…………っ」

「!? え、おい、ユーゴ……!」

 俺の動体視力はちゃんとユーゴが弾かれたように飛びついてくるのを捉えていたのに、ほんの少し遅かった。

 がっと顔を両手で包まれたと思ったら、今度は思いっきり唇を吸われた。「んー、んー!」と抗議の声を上げてもユーゴの口に吸い込まれていくだけで、大型犬が飼い主の顔を無遠慮にべろべろ舐める図がとっさに脳裏に浮かんだが、俺はそれをすぐに否定する。

(こ、こいつ詐欺だ、こっちは普通に出来るんじゃん!)

 さっきのキスが歯をぶつけるような有様だったから、もしかして人間の女性と付き合ったことがあるって話は見栄を張っていただけかと色んな意味でほっとしてたのに、経験値あるじゃんと俺は瞬間的にムカついたが、残念ながら脳みそのほうはキスをしているという嬉しさですでにゆであがる寸前だった。

 いちおう今からでも経験者のふりしとくかと思いつくのも遅ければ、この一回でこいつの技術を盗み、次回以降は俺が主導権を握ろうと画策するのも遅かった。

 あわあわしているうちに俺はユーゴに完全にしてやられた。

 ようやく解放されたときには食らわされた慣れない刺激にいっぱいいっぱいで、よろけたところを支えられてさらに恥をかいた。

「はぁ、はぁ、……嘘だろ、お、お前の世界の恋人たちってこんなスピード感なのかよ!?」

「こ、恋人!! そうですね、俺とウェイド様はもう恋人……うわ~~最高……」

「話聞いてねーし!」

 ふざけんなよなと完全にご満悦、意識が半分天国に飛んでいるユーゴの胸板を叩くと、幸せそうに笑われてまた抱き寄せられた。

 不意に、うってかわって静かな真剣な声が言う。

「……本当にありがとう、ウェイド様。それからごめんなさい。もう死ぬときは俺と一緒に死んでいただくことになります」

「……」

 俺はまだ食い下がるという選択肢を取り落として溜め息をついた。

「お前が実はくせ者だってことはじゅうぶん分かったよ。……仕方ねーから、そんなことにならないようにもう少しあがいてみるか」

「何か思いつかれたんですか!?」

「ソシャゲの時代が思ったより近い未来なら、作中で活躍した人間のキャラクターがこのランシュタイナー領にそろそろ生まれてくるかもしれないだろ。ここが現存している中では人間の最後の生活圏に等しいんだからな。そう考えれば、今は少しでも俺が長生きして領民と領地を守るのが最善だ。俺たちがやることは変わらないけど、まぁ……なんだ、前向きに行こーぜ」

 どちらかといえば退廃的なものの香る幸福に満ちていたユーゴの目に、希望の光がともる。

 それを見て単純だなと俺は笑い、同時にやっと迷いを吹っ切れた。

(戦力増強ももちろん重要だけど、グレゴリウスたちと直接戦わずに勝つ方法を考え続けよう)

 そもそも俺は研究者だ。真祖に喧嘩を売るような学説を提唱することはしても、武力による革命なんて微塵も考えたことはなかった。真っ当にグレゴリウスや真祖とやりあうなどという道に勝算を見いだせなくて当然だった。

 もっと他に、いいやり方があるはずだ。

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