第3話 推しってなんだ?

 伊勢崎雄吾、心から誓います、本当に本当に、故意ではなかったんです。


 文字通り貯金と命を賭けて追っかけたソシャゲの世界に入り込んじゃって、最推しのウェイド・ランシュタイナー様に拾ってもらえた時点で「あ、俺の幸運ここで使い切ったな」と確信したのに。毎日そばでウェイド様のお世話ができて、雪のような繊細な指先がひらめいたり、妖精のような美貌が俺の集めてきた素材を見て「よくやったなユーゴ!」と笑いかけてくれたり、良い声で持論を説いてくれたりするのを全身全霊で浴びられるだけで、心から満足だったはずなのに。

 それ以上のラッキーがまだあったなんて……!!


「うっ、うっ……ひっ、う……」


 ウェイド様は、素材集めから帰ってきた俺になぜかいきなり飛びかかってきた姿勢のまま、床に倒れた俺の上でしくしく泣いている。

 白い頬を透明なしずくがほろほろと伝っていくさまはもはや芸術品だ。

 もちろんソシャゲでこんな場面を拝めたことなどなく、不器用に泣くウェイド様の破壊力に俺は耐性がなかった。

 どうしたんですか、どこか痛いんですか、と心配するべきところなのに、俺は……俺は……。

(か、か、かっ、……かわいい~~……!!)

 ごめんなさいウェイド様、本当にごめんなさい!

 俺いまやっとキュートアグレッションって概念を真に理解できました!

 強くて天才でメンタルも完成されてて安定している、泣くところなんか想像もできないURキャラだったウェイド様が、目の前で新たな魅力を獲得しているのに冷静でなんかいられません!

 どうしたってぎゅんぎゅんとこめかみ辺りを血液が高速で回り、罪悪感と動揺より興奮が勝ってしまう……まずい、こんなの気持ち悪がられるに決まっているし、実際にもしウェイド様に「キモ……」と蔑んだ目で見られたら、それはそれでおそらく俺は満足してしまう。悪循環だ。

(い、いやいや、いま大事なのはウェイド様の体調……!)

 薄い肩に手を伸ばして気遣おうとしたとき、ウェイド様が「ひっ」と息を呑んで口を手で覆った。

「! ウェイド様、やっぱりご気分が……」

「……この、バカ……っ!」

 俺の手を震える腕で押しのけて、ウェイド様が自分を守るように背を丸めたまま怒りを露わにする。

「お前が通ってきた藪の葉っぱ、吸血鬼にとっては興奮剤みてーなもんなんだよっ! 吸血鬼が一丸になって何十年も前に苦労して駆除したはずだったのに、こんなど田舎の誰も行かない山奥に生き残りがいたなんて、……う、うぅ~」

「こ、興奮剤!?」

 また泣き出してしまったウェイド様に、俺はぎょっとして反射的に起き上がろうとしたが、「バカ!」とウェイド様の軽い拳に腹を殴られておずおずと体勢を戻した。

 しかしそうか、有害植物として吸血鬼によってすでに駆除されていた種なら、今より未来のソシャゲの時代に登場するわけがない。すべての素材を丸暗記しているやりこみ勢の俺に見覚えがないはずだ。

 心の中でまだソシャゲに囚われている廃課金オタクの俺が興奮剤という単語に「ほぅ……」と反応するのを持てるすべての理性と良心でいったんぶん殴り、ウェイド様の話に意識を集中する。

「ふ、普通の吸血鬼ならここまで効かないだろうけど、俺は最低限の血しか飲んでないせいで影響がでかい、っぽい……しかもお前が怪我なんかしてくるからっ……」

「あ、そっか血! すみません!」

 俺はわたわたとハンカチを出して腕の切り傷を押さえるが、ウェイド様はどんどん白い頬を赤く染め上げて長い睫を震わせる。

 ふだん領民からの献血や瀉血を募っているときのウェイド様は、血を前にしても淡々と作業をしているから、吸血欲求を無理矢理押さえつけているのを俺ですら忘れてしまっていた。

 今のウェイド様はギリギリで保っていた空腹と吸血欲求を興奮剤で煽られ、感情のコントロールを失わされて、食べてはいけないご馳走を見せつけられているようなものなのだ。帰りが遅いと説教するつもりで俺を迎えに来たのに、顔色を一変させて突進してきたのはそういう理由だったのか。

(は、早く血を止めないとっ)

 そう焦る間にも、血を吸ったハンカチを見つめるウェイド様の宝石のような瞳の焦点が、次第にぼんやりと溶けていく。


 あっと思ったときには遅かった。


 次の瞬間、ウェイド様は俺の手首を両手で掴み、目を伏せて腕の傷口に顔を寄せていた。

 小さな舌がちろりと血を舐めて、味を認識すると同時にぶるぶると身震いする。

 俺の手首を捕まえている手も、舌も高熱でも出しているように熱い。

 それでも思い切り吸うことはかろうじて思いとどまれているようで、ウェイド様はぺろぺろと俺の血を舐めながらひっく、と嗚咽を漏らした。

 また次々と涙をこぼしながら、

「……さ、さいあくだもうっ、のみたくないのにっ、まだがまんできたのに、がまんのじっけんちゅうなのにぃぃ……!」

 最悪だ台無しだと悔しさに泣きながら、ウェイド様はとうとう柔らかく濡れた舌を懸命に動かして「なんでおまえのち、こんなうまいんだよぉ……!」と俺をなじり始めた。


(……ありがてぇ~……)


 俺は自分の魂が抜けかけているのを感じていた。

 不思議なほど痛みを感じない。

 走馬灯のようにソシャゲでのウェイド様との思い出が去来する。

 ウェイド様はいわゆる追憶キャラ。本編の時間軸より昔の人物の断片を、人間の賢者の力で限定的によみがえらせるという体で実装されたキャラだ。

 よってそれまでシナリオ本編でウェイド様が登場したのはわずかな回想シーンのみで、彼の時代を描いたシナリオは次の期間限定追憶イベントで読めるはずだった。

 いまだにそれを読めずに死んでしまったことは悔やまれてならないが、でもそれと今この瞬間を天秤にかけたら、俺はノータイムでこっちを取る!

 間違いなく、ソシャゲではお目にかかれなかったであろう至上の光景……!! 在りし日、罪悪感を覚えながら漁ったファンアートですらこんな最高のシチュエーションに巡り会えたことはない!!

 ていうかソシャゲでウェイド様に乗っかられて身体の重みや手の柔らかさに熱さ、ましてや舌の感触まで味わえるワケねーだろ!!

 興奮剤でおかしくなってるのはウェイド様のほうなのに俺のがヤバイ!!

 血圧とか心拍数が危険値を叩き出してるのが分かる!!


 俺は元の世界では主人公と自分を同一視しない派のSNSコミュニティに属していて、キャラとキャラがちょっと色っぽい雰囲気になったり特別な絆を匂わせてきても、微笑ましく見ていたタイプだった。だから、追憶キャラというのもあいまって、今後ウェイド様と良い感じだったキャラが後出しで出て来る覚悟まできっちり決めていたし、もしそうなっても、気絶しようが胃に穴が空こうが愛し続ける決意だった。

 でも、二次元と三次元の関係だった間はまだ比較的清らかでいられた「好き!!!!」という気持ちも、同じ世界に生きてちゃ爆速でメッキが剥がれてしまう。

 心を落ち着かせることもできず、さりげない振りで身体をずらし、ウェイド様の体重が肋骨のギリギリ下に来た辺りで慎重に脚を組んだ。

 俺にだってさすがに申し訳なさと恥はある。

「……っ、ご、ごめん、いたいよな」

 てっきり吸血欲求を抑制する実験を台無しにしてしまった悔しさで泣いているものと思っていたウェイド様が、「にんげんはもろいのに、おれとまんなくて、ごめんな」としゃくりあげながら謝ってくるのが、ダメ押しだった。

(こ、これは本気で申し訳ない……)

 ソシャゲでも現実でも変わりなく、ウェイド様は優しい。誰に対してのどんな喜怒哀楽でも、裏には当たり前のように差し出される気遣いがある。そういうところが本当に推せるし好きだ~……そのほかも全部好きだけど。

 俺は仰向けのまま天を仰いで深く深く息を吸った。

 さらに少し身体を下にずらしつつ、良心を総動員してさも誠実な声を出す。

「……大丈夫ですよウェイド様。俺のほうこそドジ踏んで、こんな風にさせちゃって本当にごめんなさい」

 いやほんっっとうにごめんなさい、無数の意味で。

 俺が変な藪に入って怪我して帰ってこなければ、ウェイド様は実験を継続できていたはずだったのだ。

 吸血鬼のため、ひいては自分が認めた人間という種のために自分の身体で実験までしているこの人の努力をぶち壊したのは、俺だ。

 うまく微笑めていた自信はちょっとないが、涙に濡れた銀の目は「本当に?」というようにこっちを向いてくれた。

「埋め合わせ……になんかとてもならないと思いますけど、俺、もっとたくさん素材採ってきます! もっと色んな実験ができて、ウェイド様の夢が叶うように! だから、今は……」

 ごくりと唾を飲み込んだのがバレていませんように。

「今は、せめて満足するまで俺の血を飲んでください。どうか謝ったりしないで。ちょっとでも長くウェイド様が健康でいられるようにしてくれたら、俺はそれが一番嬉しいですから……ね?」

「……ユーゴ……」

 ウェイド様はためらいにためらった後、ちろりと唇を舐めて小さくうなずいた。


 それからの俺は……元の世界で円周率を習っていたことを人生で初めて感謝した。

 暗記した莫大な桁の数字を必死になぞっていなければ、痛がってないか、貧血を起こしていないかと、ちらちらと俺の顔色をうかがいながら固まりかけた血を舐めとるウェイド様を前にして辛抱を続けるなんて芸当は叶わなかっただろう。


「……ホントに悪かった」

 数日くらいに感じる三十分のあと、やっとひとごこちついたウェイド様が口元にハンカチを当てて改めて言った。興奮剤の作用も引いてきたようだ。顔色も少しほの赤いくらいに戻っている。

 俺は仮面のように張り付いた笑顔のまま、「謝らないでくださいってば」と紳士ぶって念を押す。

 するとウェイド様はゆるゆるとかぶりを振り、

「いや血のことだけじゃなくて、……なんか、俺がうっかりしてたっぽいから……」

「? うっかり?」

「……自分じゃ我慢できてたつもりだったんだけど、無我夢中すぎてたぶん漏れてたんだと思う……その、チャームが」

「え」


 えっ。


 俺は紳士の仮面のまま凍り付いた。

 ウェイド様は居心地悪そうにもぞっと尻をずらし、俺の上から立ち上がる。

 そろりと気になる箇所に照準を合わせようとするその白く細い人差し指は、俺の目にはギロチンの刃に見えた。

「……それさ、チャームのせいだから、気にすんなよな。ついでにいちおう治癒魔術かけてやるから……こういう誤作動の場合意味あるのかは分かんないけど……な、治った感は出るからな、うん。傷口いじられたあげくにこれじゃお前があんまり可哀想だし……」

 ウェイド様は大真面目に魔力を編み、俺に魔術をかけた。腕の切り傷はそれだけですっかり治り、彼の卓越した技量がうかがえる。

 しかし、今度こそ本当に魂が抜けてしまった俺を置いて、ウェイド様は「んじゃ後でちゃんと飯食えよ」と逃げるように部屋を出て行く。

 その背中に、「失敗した」「そうじゃないんですごめんなさい」「このまま行かせたら絶対壁ができる」と本能が叫び、俺はハッと我に返った。

 そうだよ、誤解でウェイド様が自分を責めるくらいなら、誤解でキモがられるなら、真実を伝えてキモがられたほうがいいじゃないか……!!


「誤解です、あの俺、ウェイド様が好きなんですっ!!」


 がしゃーんと廊下でウェイド様が派手にすっ転ぶ音がした。



 昨夜、ユーゴに告白された。

 でも状況が特殊すぎたから……根絶したはずの有害植物にあてられて血をねだった俺が、飢えに呑まれてうっかりチャームをかけてしまったのだろうと思った。最初は。

 ユーゴは誠意を見せると言い出してセイザとかいう姿勢で床に座り込み、そのまま「すみません、藪に入ったところから今に至るまで、一から十まで俺が悪いんです」とドゲザとかいう姿勢に流れるように移行した。

「ウェイド様に非はいっさいありません。チャームにかかったんじゃなくて、もともとウェイド様のことが好きなんです……」

 すみませんとこの世の終わりのような顔で謝られる。

 俺は唖然としてユーゴの言葉を聞いていた。

(好きだって? 俺のことが? ……俺を!?)

 自慢じゃないが長い人生の中で誰かに好意を告げられたことなどない俺である。

 偏屈な異端者と恋愛がしたいと考える奇特な吸血鬼なんかそりゃいないだろう。俺だって恋愛する時間があったら研究に打ち込みたいし、一生そういう浮いた話とは縁遠いものだと思っていた。本当に自慢にならない。

 好きなんです、信じてくださいとユーゴがしつこく繰り返すので、俺はワケが分からないながらに訊いた。

「いやお前、俺のことは推し? みたいなこと言ってただろ!? 元の世界では俺は物語の中の登場人物なんだって!」

「はい、浅ましいリアコですみません!!」

「用語に用語で畳みかけるな!」

 推しはこれまで何度かユーゴとの会話で出てきた言葉だからなんとなく意味が推測できるが、リアコは初出のはずだ。ぜんぜん意味が分からない。

 俺は詳細な理解をいったん諦め、実はちょっと気になっていた切り口に挑戦してみることにした。

「つーか……その、俺が過去の偉人ポジションなら、一緒に伝わってないのかよ。伴侶とか恋愛エピソードみたいなやつ……」

 どうでもいいけどなんとなく訊いてみた感を出しつつ訊ねると、ユーゴの黒い目が途端に据わった。

「……ウェイド様の登場シーンや解禁済みプロフィールにはそのような記載はありませんでしたね」

「……ちっともか? ちっともなかったのか?」

「……まぁ、分かんないです、発売予定だった設定資料集や今後のアプデで明かされる可能性はあったので俺は念のため覚悟決めてましたけど……。情報解禁と同時に心臓が止まったとしても、続報があるにつれて胃に穴が空いても、ウェイド様を愛し推し続ける覚悟を……」

 朗報と恐怖を半々で伝えてくるのをやめろ。

 ユーゴが本当に胃を痛めてそうな苦悶の表情を浮かべるから、俺もそれ以上話を広げる気になれなかった。

 心底苦しげにしながらも「そんな話は影も形もなかったですよ」なんて都合の良い嘘はつかず、ユーゴは本当のことを言った。俺がその相手とこの先恋に落ちるかもしれないのに……いや、そうだ。

「ほら、やっぱりお前、俺のことは物語のキャラクターとして好きなんだよ。本気で好きなら、『そんなのなかった』って答えて俺が誰かとくっつく可能性を潰すはずだろ。そこまで必死になってないってことは……」

「他の人との可能性を潰せば消去法的に俺を好きになる方じゃないですもん、ウェイド様は」

 俺の推理を遮って、ユーゴが思いの外強く言った。

「吸血鬼でも人間でも、自分と関わり合いのある相手を何かの代わりにするようなこと、ウェイド様はしないでしょう。俺のことも領民ひとりひとりのことも、……もしかしたらいるかもしれないいつか結ばれる相手のことも、代わりなんかいない個人として見てるから、効かないじゃないですか、そんなやり方。……くっ、最高……好き……」

「……」

 それはまぁ、その通りだが。

 言いながら唐突にまた何かを噛みしめだすようなやつに正鵠を射られたのがシャクで、俺はそっぽを向いた。

「……あー、じゃあ……素性的に吸血鬼に物怖じはしないとしても、お前って男が好きなの?」

 この問いに、ユーゴはいまさら気がついたというようにきょとんとして首をひねった。なんでだよ。本来もっと早く気にするべきところだろう。

 少し考えてから、ユーゴはにっこりと自信満々に笑った。

「いえ、実際付き合ったことがあるのも、他の作品で好きになったキャラも女の子でしたよ。だから俺の場合、単にフィクションだろうと現実だろうとウェイド様が好きってだけのことですね! こうやって本物のウェイド様にお会いして、ますます好きになりました。俺がソシャゲで知ってたウェイド様の魅力なんか、マジでほんの序の口でした!」

「ふ、ふーん……」

 こいつが早口になるとき特有の真剣な目でまっすぐ見つめられ、熱っぽく語られて、不覚にも照れてしまった。

(……好き、ふーん、好き、ねぇ。そんなこと、初めて言われた)

 正直我ながら俺と恋愛は絶対したくねーなーと思うくらいなのに、どこがそんなに良いんだか。

 微塵も共感できないが、ユーゴはどうやら本気で言っているらしい。

 物語で知ったわずかな俺の側面だけじゃなく、本物の、現実に生きている俺のことが好きだと。本物の俺に会っても失望しなかったと、そんな珍妙なことを真剣に。

 だって、普通は失望するはずだろう。約二百年先には偉人として語り継がれているとはいえ、今の俺は全方面に喧嘩を売るような生き方をしてわずかな人間をどうにか囲い込み、吸血鬼の在り方も変えられないでいる、研究漬けの男なのに。

 考え込んでいるとユーゴのほうが不安げな顔になって、

「……すみませんウェイド様、やっぱり気持ち悪いですよね……」

「え?」

「変なところも見られちゃったし、種族すら違う異世界人の男だし。どうせ気持ち悪がられるならいっそ全部バラしたほうがまだマシだと思ったんですけど、冷静になってみたら勝手でしたよね。ウェイド様は俺に気を遣うって分かってたのに」

「勝手? 何がだよ?」

 告白される側がかえって気を遣うとか、それを受けて告白した側も罪悪感を持つのだとか、そういう機微をこのときまで知らずに生きてきた俺は――――告白されたら無条件に嬉しいもんだと思っていたのだ――――ユーゴが何を申し訳なく思っているのか分からなかった。

 えっえっと混乱しているうちに、ユーゴはその俺の態度を誤解して自己完結したようで、「俺が言ったことはどうか忘れてください。本当にすみません」と頭を冷やしに行ってしまった。


 ……で、ユーゴがすっかりいつも通りの態度に戻って、翌日の昼になった。


(いや切り替え早いな?)

 本当に、昨日の告白も俺が無理矢理血を吸ったことまでもまるでなかったことみたいに普通に接してくる。

(『推し』のすることなら多少の暴挙には目を瞑ろうってことか?)

 血を吸われたのなんか初めてだったろうに、餌扱いしてきたやつによく好きだとか言えたよな。まぁ、本人がもうなかったことにしてるみたいだが。

 吸血の頻度を減らす実験も昨日でご破算になってしまったし、ユーゴの血がやたらと美味かったのも不思議だし、そっちもちゃんと考えないといけないのに、昨日ユーゴが採ってきた大量の素材をあらためる作業も遅々として進まない。

 仕方ないので俺は袋の口を閉じ、冷たい机に頬をつけた。

(忘れてくださいって言われてもさぁ……)

 いつか恋愛するなら吸血鬼で貴族の女性だと漠然と想像していたが、現実に人生で初めて告白してきたのは異世界から来た人間の男だ。

 ただ、昨夜の様子を見るに、異世界人といえどこっちの世界と恋愛の定義がぜんぜん違うということはなさそうだった。

 俺が想定しているような一般的な恋愛のあれそれをユーゴが俺に求めているのだとしたら……いや、違うか。

(そもそもあいつ、好きとは言ってきたけど俺にどうしてほしいとは言ってなかったよな。自分が相手を好きってだけで満足なのが『推し』……? そういうことなら、俺はこれ以上何もしなくていいのかな……)

 ユーゴが操る意味不明な言語をひとつ解き明かせたのは良かったが、何ともはっきりしない気分だ。




「ウェイド様、俺と村の人たちで例の藪は処理してきましたよー! 何かの実験に使う分だけ増えないように保全してあるので、そのときは俺におっしゃってくださいね!」

「ウェイド様、白衣洗濯しますから脱いでー!」

「ウェイド様、お年寄りが捻挫しちゃったみたいなんでお手伝い行ってきますー!」

「ウェイド様、子どもたちとかくれんぼするのにちょっと館の庭を使わせていただけますかー?!」

「おー分かった分かった」

 あれから一週間。

 ユーゴは相変わらずコマネズミのようによく働く。

 領民たちともますます仲良くなって、暮らしは順風満帆そうだ。最初はあんなに畏まっていた俺にもずいぶん遠慮がなくなってきた。

 しかし領民たちの様子の報告やくだらない会話で笑い合うことはあっても、告白の件にはいっさい触れないままだ。

(本当になかったことになってるじゃん)

 種族と身分は違えど、今の俺とユーゴの関係は同性の友人が一番近い。

(いや別にいいんだよこれで! いいんだけど~……)

 職業病のようなものだと思うが、俺はユーゴと接しているときついついそんな予想を立ててしまうし、「俺がこうしたらお前はどう感じる? 嫌? 嬉しい?」と確かめたくなる。その上で、「ここってこいつが俺を好きならこういうリアクションをするところだろうなー」という予想がただの一度も的中したことがない。

 まさか、俺に恋愛的な常識がないってことなのだろうか。

(結局研究と同じことしちゃってるよなー……)

 色んな切り口から仕掛けて反応を見て、ユーゴの状態を推理して。

 集めた反応どうしを比較し、その差が何から来るものなのかをまた推理する。

 それでいいんだろうか。

(……なんで俺がこんなもやもやしなきゃなんねーんだよっ)

 あっちは人間で男で異世界人。

 いくら顔と体格がそれなりで、吸血鬼に恐怖や偏見がなくて、俺の強烈なファンか何かで、働き者で、興味深い異世界の話や知らない素材を差し出してくる便利なやつでも、俺の恋愛対象である吸血鬼の貴族女性には掠りもしないんだから、なかったことにしてくれるというのならほっときゃいいのに……。

 これ以上俺がすることは何もないと結論を出したはずが、ユーゴの切り替えっぷりがあまりに良すぎて戸惑っているのかもしれない。


 夕方、館の一階の中庭に面した部屋を軽く拭き掃除していると、俺の深い溜め息を聞きつけてユーゴがやってきた。

「どうかされましたか、ウェイド様?」

 さっきまで村で水車の点検を手伝っていたユーゴは、帰ってきたばかりで疲れているだろうに俺の心配なんかしている。

 俺は並んだ長机を乾拭きしていた手を止め、

「別に、今回もガラガラだったなって。教室」

 この俺の領民がバカじゃ示しがつかないので、定期的に領主館の一室を使って読み書き計算の教室を開いているのだが、いつもは従順な領民たちがなかなか来ないのだ。勉強なんか嫌々詰め込んでも身につきはしないから出席を強制したりはしていないが、それにしたって出席率が悪い。出られない理由が農作業だとか家族の世話だとかと言われると、ただでさえもろい人間に出席を強いることも躊躇われるし。

「あいつら基本は俺の言うこと聞くのに、なんで勉強は嫌がるんだろ」

 ひとりごとのつもりで落とした疑問を、ユーゴが拾った。

「あー……それ、笑えなくなっちゃうからみたいですよ」

 俺はぱちりと目を瞬いた。

 ユーゴはにこにこと穏やかに補足する。

「真っ向から感謝してもウェイド様は素直に受け取ってくれないから、自分たちがちゃんと幸せだってことを態度で示そうって話になって、ウェイド様の前では必ず笑顔でいようってみんなで決めたんだそうです。でも難しい勉強となるととても笑顔を保っていられないから、ウェイド様を悲しませてしまうんじゃないかって、気が引けて行けないんですって。学習意欲がないわけじゃないみたいです」

「え……。俺にビビってご機嫌取ってるもんだと……」

「ぜんぜん違いますよ! 俺の世界でもこの世界でもめちゃくちゃ人気ですよウェイド様は!」

「けど俺、吸血鬼だぞ?」

「関係ないですよ、種としての吸血鬼はともかく、ウェイド様は誰のことも虐げたりしてないじゃないですか! 俺が領主館で住み込みで働いてるからって、みんなことあるごとにウェイド様の様子を訊いてくるんですからね。最近元気かとか、おなか空かせてないかとか、腹巻きのサイズはいくつかとか」

「幼児か俺は!」

 偉大なる領主に向かって気にするところがそこなのかよ。

 言っとくが、お前らを守ってやってるのは俺のほうなんだからな。吸血鬼に腹巻きなんか要らないし。

 ユーゴは憤慨する俺にもう! と拳を握り、「どうしてそう周りに愛されてる自信だけが持てないんですかねウェイド様は~。でもそういうところもかわいい~!」などとひとりで嬉しげだ。

(……何をしてやっても結局は信用されてないんだと思ってたけど、違ったのか……)

 俺はなんだか気が抜けて、使われなかった長机まで同じように乾拭きするのが急に面倒くさくなった。

「もうここはいいか。ユーゴ、飯にしよう。俺は残りの保存血液だけど」

「あ、はい。その前にひとつお願いがあるんですけど、いいですか?」

 いつもなら今日のメニューはバイト先の居酒屋で覚えた~と訳の分からんことを語り出すユーゴが代わりに意外なことを言った。

 俺はその顔を振り仰ぎ、

「内容によるが……まぁ、言ってみろ」

 ユーゴはこくりと頷き、

「そろそろ一度、この辺りにはない素材を採りに行きたいんです」


 まずはここに行きたくて、とユーゴが地図で説明した目的地は、舞踏会で話しかけてきたあの老貴族、ザロモの領地にあった。

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