ダリア

鷹野ツミ

ダリア

 ダリアの花言葉には「裏切り」があるらしかった。

 彼女は私を見つめて可笑しそうに言う。

「ダリアちゃんが、あたしを裏切るわけないじゃんね」

 暗い部屋、冷えた布団に寝そべって、彼女は私の指を舐る。生温く湿った私が彼女の一部にツンと触れ、じわじわと進んでいく。

「痛っ……」彼女の口からほろりと漏れた。だが直ぐに甘く息を吐いてベッドを軋ませる。少しの痛みが彼女をより楽しませるのだ。

 大人しい彼女にこういう気質があるなんて誰も知らないだろう。私だけの特権。私だけの彼女。

「おやすみ。ダリアちゃん」

 ひと時の快楽に浸った彼女は、本棚の上に私を飾り直して眠りに落ちた。

 暗くて彼女の顔はよく見えないが、一定の速度で繰り返される寝息が愛おしい。


 先程彼女が「裏切るわけない」と断言できたのは、私が、手のパーツのみのデッサン人形だからだ。木製の塊に裏切りも何もない。

 出会いは、彼女が高校生の時だった。

 彼女の父親が新品のデッサン人形を買い、使われなくなった私は部屋の隅で埃をかぶっていた。

「お父さーん、小物入れ持ってないー?」

「持ってなーい。おい、勝手に入ってくるな」

「うわ、散らかりすぎ……あ、これいいかも」

 たまたま彼女に拾われた私は、ゴミにならなくて済んだのだ。カクカクと動く指に楽器のピックを持たされ、その時はインテリアの一部になったのだと理解していた。

 それが違うと思ったのは、「ダリア」という名を与えられてからだ。彼女の好きな女の子のあだ名を私に付けたようで、その子の話を何度も聞かされた。

 部内で一番ギターが上手くて、いつも整えられた爪が綺麗で、上品な笑顔が眩しくて、激しい演奏後の気だるげな横顔が色っぽくて、いい匂いがして……。

 とにかく好きなのだろうなと思った。私が持たされているピックも、振りかけられた香水も、全部その子のもので、私はインテリアなんかではなく、その子の代わりなのだと理解した。彼女は疑似恋愛をしているだけ。勘違いをしてはいけない。

 理解しているのに、彼女と行為をする度に悲しくなった。


「ダリアちゃんを捨てるなんてできないよ……」

 そう言われたのは、彼女が大学生になって少し経った時だった。

 捨てるという言葉に肝が冷えた。

「あたしもうすぐひとり暮らしするんだけど、お母さんがね、こんな手首捨てなさいって言うの。酷いよね。あたしはダリアちゃんのことすっごく大切にしてるのに」

 嬉しかった。私達は両想いで、私は代役なんかではななかったのだ。

「なんか、嬉しそうに見える……人形には魂が宿るって言うけど、ダリアちゃんもそうだったりするの? なんて、そんなわけないか」

 照れたように笑う彼女が愛おしくて堪らなかった。私は軽い口付けをされた後ダンボールにそっと入れられ、新しい部屋でも彼女と一緒に生活した。


 物の少ないワンルームでは、嬌声が良く聞こえる。私の名を呼ぶ彼女の顔を見たいが、自ら動けない私は、快楽に向かう彼女の中で動かされるだけだ。蜂蜜のように絡みついた液体が、木製の指からどろりとこぼれ落ちた。

 ぼんやりした瞳で私を拭う彼女を見ると、背徳感と優越感が混ざり合っていく気がする。

 私を持ったままベッドに転がった彼女が微睡む。間近で顔が見られて幸せだ。

 不意に彼女の携帯端末が震えた。

花田利亜はなだりあ」と表示されている。

 へっ、と間の抜けた声を発した後、緊張した様子で通話ボタンを押していた。

「……もしもし、だりあちゃん?」

 相手は私と同じ名前のあの子だった。聞こえてきた内容は、今度サークル主催のライブやるんだけど参加しない? という話だ。彼女はこういう時、断れる性格ではない。曖昧な返事を相手は前向きに受け取ったようだった。


 ライブ当日、彼女はずっとそわそわしながら自室を歩き回っていた。高校生の時に好きだった人に会うのは緊張するだろうし、ステージに立つのだって緊張するだろう。私は頑張れと心の中で応援した。


 夜は更け、日付が変わりかけていた。

 ガチャリと音がする。ようやく彼女が帰ってきたらしい。

 ただいまという声を待っていたのだが、聞こえたのは二人分の笑い声。ふんわりした茶髪の上品な顔立ちをした女の子と一緒だった。直ぐに分かる。あれが「だりあちゃん」なのだと。

 ソファーに並んで座る二人を、対面の本棚の上から私はじっと見ていた。

 酒類が沢山あった。未成年なのに。真面目な彼女はきっと初めて飲んだはずだ。頬が随分と色付いている。

 普段よりもよく笑う彼女は、楽しそうだ。演奏の良かったところを褒め合っていて、今なら作曲できそうなんて調子に乗っちゃって、飲んで、笑って、肩が触れ合って……。

 そのままソファーからベッドに移動した。

「自分で脱げる?」「……うん」「いい子」「あ……すごい深爪」「ギター弾く時痛かったな」「ふふ。あたしのため?」「え、なに酒が入ると大胆になるタイプ?」「んー、そうかも」「可愛いかよ」


 嫌だ。見たくない。

 私の彼女に触らないで!


 湿った音と、嬌声。乱れた呼吸の合間に聞こえる柔らかな笑い声。彼女が呼ぶ名前は私のことを指していない。前に言っていた花言葉を思い出す。裏切ったのはそちらの方じゃないか! 結局私は代役に過ぎなかったの? そんな、そんなはずは……。

「あれさ、昔あげたピック、飾ってくれてるんだね」

「……初めて、だりあちゃんにもらったものだから……」

「まじで可愛い、すき」

「あたしも……すき」

 私の心は砕け散った。二人は、身体も心も繋がってしまった。私はもう捨てられる。私の指に持たされているピックを今すぐに破壊してやりたい。でも私は動くことができない。悔しい。それなのに、絶望的な状況なのに、見たくないのに、私は、彼女の乱れた姿に欲情していた。今まで知らなかったから。こんな表情でこんな風に乱れていたなんて。いや、きっと私では引き出せない姿なのだろう。「だりあちゃん……」そうやって蕩けたように呼ぶ声が、私に向けられていたら良かったのに。私が木製の塊なんかじゃなければ良かったのに。あの子は私から彼女を奪ったという自覚すらないままこれから生きるの?

 そんなの、あんまりだよ。

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