微温的中国語の部屋とヴァンパイア
ポトリと口に咥えたネズミが落ちた。
ウチ、つまりフランシスカがまだフランシスカだと認識していなかったころ。銀色の髪を乱雑に伸ばして、紅玉の瞳を濁らせて、ボロ切れをまとって、錆びついた手斧で人間を適当に襲っていた時代のこと。言語能力は皆無であり、もちろん論理的思考なんぞ一片もできぬ、ある意味では幸せだったころのこと。
血に濡れた斧を適当に、遊び半分に振り回して、咥えたドブネズミの血液を飲んでぶらぶら徘徊していたウチに近づいてくる人影が一つ。今宵は新月であるし、この裏通りに街灯なんて洒落たものはない。しかし人影は真っ直ぐウチに近づいてくるようである。ウチはお腹が空いていないことを確認して、此奴をどうするか、上手く働かぬ頭で考えようとして、それで───
「やあやあ、我が眷属。我が妹よ。ご機嫌いかがかな?」
すぐに逃げなければと思った。
ぞわりと背中が泡立って、頬に付着したドブネズミの血液の不快感も気にせずに口の端を歪める。声の主、つまりは近づいてきた人影が二言目を発する前にウチはきびすを返して、冷たい石畳を素足で踏んづけて駆け出そうと考え、出来なかった。出来なかった理由としては足が震えて動けなかったという物理的な理由と、どうせ捕まるのだから受け入れてしまった方が楽かもしれないという諦念観念の二つである。ドブネズミがチュウと鳴き声をあげて地面に叩きつけられて、まだ息があったのかあと呑気にもほどがある感想が脳みそをよぎった。
「……そんな獣の血じゃあ腹の足しにもならんだろうに」
憐れにも失血死アンド落下死を経験したドブネズミを見ながら苦笑して、人影は──自身とお揃いの色彩を放つ吸血鬼はウチに手を差し伸べた。
端的に言ってしまえば、恐ろしかった。だって、コイツは、コイツは、コイツは!
──どう考えたってウチを吸血鬼にした吸血鬼で、ある意味での生みの親だったから。
その時のウチはそんなこと考えられなかったけど、自分よりコイツの方が格上で、勝てなくて、どう考えたって今までの日常が覆されることは理解できたから。曲がりなりにもこの薄暗く薄汚い町で、夜の王様気取りだったウチは、自分よりも恐ろしい存在に会ったことがなかった。
一歩、後ずさる。
「とびっきりの血をご馳走してやろう。……こちらだ」
言葉はよく分からなかった。その時のウチは言語能力が低かったから。でも、とにかくこの吸血鬼がウチをどこかに連れ出そうとしていて、これまでのぬるま湯のような変わり映えのない日々が終わってしまうことだけは分かった。
変わりたくない。変化はこの吸血鬼よりも恐ろしい。同じことを繰り返して繰り返して、アタマからっぽにして、それでやっと生きていけるのに。ウチは──
「それでは、いこうか」
吸血鬼に手を引かれて、ウチはこの町から出て行った。
……
フランシスカ・ツェペシュは元人間の吸血鬼である。
そう、出生地不明のミフネアの妹を名乗っているのに、元人間。ミフネアのように何千年も生きていけるワケじゃあない、平凡な吸血鬼。
ではなぜミフネアの妹を名乗るのか? 答えはカンタン、ミフネアが増やした唯一の吸血鬼だからである。
ミフネアは眷属を作ることを好まない。すぐ死ぬからとか、食事のたびに増やしていたらキリがないとか、色々理由はあるけれど、とにかく同族を増やしたがらない。例外となったのがフランシスカである。ある種レア物、SSR。出現確率れーてんなんぱーとかだし。
そんなフランシスカは生まれて数ヶ月で吸血鬼にされた人間であった。
なんとなしに民家に不法侵入したミフネアは死体となった二人の男女と死にかけの赤ん坊を発見してしまったのだ。どうやらお若い二人は夫婦喧嘩がヒートアップし殺し合ってしまったらしい。まだ目も開いていない赤ん坊を一時の個人の感情で置いていくなんてこの二人は稀に見る愚か者の大馬鹿者だったらしいのだが、もうポックリ逝っちゃってるワケだし。ミフネアに死体蹴りの趣味はなかったから退散しようとした。そしたら、赤ん坊が弱弱しく泣き始めた。
どんな冷徹非常の悪徳ヤロウだって赤ん坊が泣けば狼狽えるしなんかしてやりたいと一瞬でも思ってしまうものである。例に漏れずミフネアもそうだった。このタイミングで泣くのかよなんて悪態をつきながらも、どうにかしなければ夢見が悪いのでなんとかしなければならない。しかし赤ん坊は死にかけていて手のつけようがない。ならばどうするか。いっそこのまま死んでしまうなら──
いっそ死ぬなら、吸血鬼にでもしてしまおうかと、ミフネアは考えて、実行に移してしまった。
どうせ死ぬから。どうせ生きていけないから。ならば新しい命をくれてやろうと、ミフネアは神様気取りでそう考えたワケである。傲慢で、いかにも怪物らしい考え方には反吐が出るが、それがなかったらフランシスカは死んでいたのだ。
だから、フランシスカは──ウチは迷う。いっそ死なせてくれたら人間として終われたのになあと、思わなくはないから。どんなクソッタレでも両親は両親で、二人が死んだならウチも死んで、天国でのんびり暮らした方が幸福かもしれなかったなあ、なんて。くたばりぞこなったフランシスカは、ウチは、これからどうやって生きていけばいいのだろうと。
「だからさあ、どう思う?」
「ソレ、本人に聞くか?」
広間にて、ウチはスマホを眺めながら兄様に問いかけた。
兄様は困惑したような表情を浮かべて頭をかく。シェイプシフターが壊れて、修復されるのを待っているところだった。今って何回目だっけなあ、かろうじて三五○○回はいってないだろうけど。
「別に死にたかったワケじゃないけどさ。ウチは救われたことに感謝すればいいのかな? それとも美しく人間として死ねるところを邪魔されたって怒ればいい?」
「……知らん」
「ひどいなあ。兄様がやったことじゃない」
投げやりにも程がある返事に呆れながら、ウチは兄様にまた問いかける。今日はよく口が回る日だ。調子がいい。
「……望んでもないのに生き返らせるのはメアリーで懲りたと思ってたんだけど」
「赤子に自殺願望があると? 百歩譲ってあるとして、死にたいなら泣き喚かなければいいじゃないか」
「そりゃあ赤ちゃんだもの。意思疎通の方法は泣くか笑うかの二択でしょ。それを兄様は生存願望だって解釈しただけ」
「……そんな死にたがりだったか?」
「さあね」
ウチは肩をくすめて身じろぎする。メアリーは失敗作として生きていくことを嫌がって、自らを生んだ全ての運命を呪っている子だった。ウチにとっては育ての親みたいな子。今は仲間が欲しいと自分と同じ失敗作を造ろうとしてるんじゃなかったっけ。よくやるなあと関心する。
「まあそれはいいや。……今更だけど、なんであの日迎えにきたの?」
新月の夜に、兄様は浮浪児であるウチを迎えにきた。もうとっくに自分の日常を、不変を手に入れていたウチを、勝手に連れ去って、不変をぶち壊した。ウチがもっとも嫌う行為、すなわち変化をもたらした。感動の再開だねなんてのたまって。
──大きくなったね? ふざけんな。ほっといたのはアンタだろ。
「ひどいよねえ。兄様がウチを迎えに来なければメアリーもシンイーもシェイプシフターも誰も彼も終われたのに。真相を知らずに、いつまでも不変であったはずなのに!」
「……タラレバの話はよしてくれ。それともなんだ、ラプラスの悪魔でも手懐けたのか。たとえ私が迎えに行かなかったとしても、メアリーはどこかで真実を知っただろうし、シンイーをシンイーとして蘇らせただろうし、シェイプシフターも変化し続けているだろう。未来がそんなカンタンに知れて変わるなら、今頃みんな億万長者だ」
相変わらずの兄様の屁理屈に閉口する。そういう話ではない。ウチの不変をぶっ壊したことに関しての話をしているのだ。勝手に連れ出して、ほっぽいて。変化をもたらすのをやめてくれないこの吸血鬼に、ウチは──
「……怒ってるか?」
機嫌の悪い妹の顔色を伺ってオドオドとそう聞いてきた兄様を見て、ウチはため息を吐く。
「そんなに」
「……そうか」
……ここで強く怒れないウチは、結局この吸血鬼のことをどう思っているのだろうと、ぼんやりそう思った。
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